しかし、これはどちらの選手もキャリア最高のパフォーマンスを経てリングに上がる試合ではない。昨年夏、クロフォードはロサンゼルスで
イスラエル・マドリモフと対戦し、154ポンド級に階級を上げて接戦の末に判定勝ちを収めた。
新しい階級、ブランク、やっかいなスタイルの相手といった挑戦をすべて考慮すれば、クロフォードがこれまでのように自らの意思を押し付け、最終的に相手を追い込むことができなかったのは初めてであった。その結果、クロフォードがすでに肉体的なピークに達しており、最盛期を過ぎているのではないかと疑問を抱く者もいた。
カネロの場合は、
ウィリアム・スカルに対する退屈な判定勝からリングに戻ることになった。この試合は攻撃面での消極性に関する好ましくない理由でCompuBox記録を更新してしまった。当然、その多くの責任は接触を避けてリングを回り続けたスカルにあるが、それでもアルバレスがリングを切る能力やキャリア終盤における動機づけに疑問を投げかけるパフォーマンスであった。
しかし、キャリアを決定づける大一番を前に、直近の試合内容をもとに偉大なファイターに疑問が投げかけられるのは過去に何度もあったことであり、それらはすべて誤った先入観に過ぎないとして退けられてきた。むしろ、
アルバレスや
クロフォードが引退と同時に殿堂入り確実と評価されるような成功と長寿を成し遂げるためには、このような不安定な時期を乗り越え、少なくとも一度は再び頂点に立つことが必要なのだといえる。
このことを最も端的に示す歴史的事例は、1987年に行われた
シュガー・レイ・レナード対
マービン・ハグラーの世紀の一戦であろう。レナードは4対1の下馬評の中、多くの懐疑的な声とともにこの試合に挑んだ。1984年5月にケビン・ハワードを9回TKOで下して以来、リングから遠ざかっていたが、その試合でレナードはキャリア初のダウンを喫し、試合が止められた時点でジャッジの一人は1ポイント差の僅差と採点していた。
疑念を抱いていたのは記者だけではなく、レナード自身もまた次戦でハグラーに挑むことの妥当性に迷いを抱いていた。
「自分自身を、そして他人を欺く意味はない。もうそこにはないんだ。自分を侮辱するような真似はできない。恐怖心を抱いて戦った。目への恐怖、体全体への恐怖があった」と、レナードはその試合後に語っている。
レナードはその後3年間リングを離れたが、皮肉にも1986年にハグラーがジョン・ムガビを破った試合をリングサイドで観戦したことで復帰を決意した。レナードによれば、その時マイケル・J・フォックスの隣に座っており、「自分ならハグラーに勝てる」と口にしたという。後年こそムガビ戦は評価されているが、リアルタイムではムガビが一部のラウンドでハグラーをアウトボクシングしているとレナードは見て、そこに付け入る隙を感じ取った。
結果としてレナードは『ザ・リング・マガジン』の「年間最優秀試合」「年間最大番狂わせ」、さらには「10年間の最大番狂わせ」を受賞し、内外の疑念を封じ込めた。当然、この試合の判定はいまも議論の的であり、多くがハグラーの勝ちだったと考えているが、それであってもなお、前戦の不安定な内容を理由に偉大なファイターを疑うのは誤りであることを証明したといえる。別の世界線では、ムガビ相手に苦戦したハグラーが「フォー・キングス」の真の王者とされた可能性もあるのだ。
また、
サルバドール・サンチェスの例も挙げられる。彼の最高の瞬間は、一度スター性が陰ったかに見えた試合の直後に訪れた。悲劇的な死から周年を迎えたばかりだが、メキシコが誇るボクシングの偶像に多くの賛辞が捧げられた。その多くは、ウィルフレド・ゴメスに対する見事な勝利を中心に語られている。サンチェスはリング誌とWBCのフェザー級王者としてゴメス戦に臨んだが、オッズでは不利と見られていた。最大の理由は、ゴメスが世界タイトル戦で歴史的なKO連勝を続ける無敵の破壊者と評されていたからである。
しかしサンチェスもまた、そのわずか1か月前に無名のニッキー・ペレスを相手にロサンゼルス・タイムズのリチャード・ホッファーが「調子外れ」「精彩を欠いた」と評した試合をしていたのである。
「5度の防衛戦で完成されたボクサーのように見えていたサンチェスだったが、この土曜の夜は精彩を欠き、フェザー級リミットの126ポンドを3ポンド上回って戦っていた」とホッファーは書いている。「1980年に恐れられたダニー・ロペスをまるでミキサーにかけたかのように粉砕して王座を奪った同じボクサーが、無理に踏み込み、空振りを繰り返していた。また、多くのパンチを被弾していた。」
試合後すぐにゴメスはリング上でサンチェスを挑発し続け、普段は冷静で礼儀正しいサンチェスを激怒させた。そしてサンチェスは歴史的な一言を残した。「試合前に写真を撮っておけ。試合後のお前は自分でもわからなくなるからな。」
サンチェスはゴメスを8回TKOで下し、メキシコ対プエルトリコのライバル関係における歴史的名勝負を演出した。試合後、王座を保持したままリングを去ったサンチェスの唯一の後悔は「15ラウンドをかけて痛めつけたかった」というものだった。
おそらく、サンチェスはゴメスの挑発によって、この試合で見せた凶暴性を引き出すことができたのだろう。これは、大一番でファイターが逆境を覆す際によく見られるテーマであり、追加の動機付けの必要性を示している。命を懸けることを前提にリングに上がるボクサーに自惚れを指摘するのは憚られるが、それでも試合によってモチベーションの度合いが異なるのは間違いない。
これはエベンダー・ホリフィールドがマイク・タイソンと戦った夜──そしてその後の連戦でも──当てはまる。ホリフィールドはリディック・ボウに敗れてから2戦後、さらにボビー・チーズとの退屈な試合の直後に初めてタイソンと対戦した。ブックメーカーはホリフィールドを25対1の大穴とし、タイソンは「観客がホットドッグを食べ終える前に試合は終わる」と豪語して、ラスベガスが宣伝するように短く一方的な試合になると示唆していた。
だが、多くの人が考えていなかったのは、ホリフィールドにとってタイソンが北極星のような存在であり、幼少期から倒すことを心に抱いてきた怪物であり、特別な力を引き出す相手だったということだ。ホリフィールドは1996年にタイソンを支配してストップし、翌年の再戦でも記憶に残る勝利を収めた。少なからずそのことがタイソンの精神的崩壊を加速させ、耳噛み事件へとつながった。
カネロとクロフォードの場合、直近のスカル戦やマドリモフ戦においては、9月13日に向けて抱くほどの強烈な動機付けを持っていなかったといって差し支えないだろう。エリートアスリートは常にモチベーションを持ち、様々な方法でエネルギーを引き出すが、どんなに意志の強い選手でも、その鉱脈が枯れかけたり、そこに辿り着く過程が以前よりも困難になることがある。しかし、夢見てきた地位と遺産、そして黄金が手の届くところにあると知れば、真の偉大な選手はかつてないほど深く掘り進めるだろう。
したがって、カネロやクロフォードを軽視するのは危険である。彼らが我々の知るような世代を代表する偉大な選手であるならば、来月には一方、あるいは両者が特別な何かを披露する可能性は十分にある。