すべてのパンチが打ち尽くされ、勝敗が数え上げられ、栄光が分け与えられたあと――
リッキー・ハットンはこう尋ねられた。
「自分のことを、どう記憶してほしいですか?」
「“世界チャンピオンだった”って言われるかもしれない。でも俺は、“あいつは俺たちの仲間だった”って言われたいんだ。」
かつてハットンはそう語っていた。
金曜、マンチェスター。自宅で亡くなってから26日後、
唯一無二のリッキー・ハットンが静かに葬られた。
その光景は、まるで国葬か、9年前にルイビルで行われたモハメド・アリの葬儀を思わせるものだった。マンチェスターの街全体が、“ピープルズ・チャンピオン”――自分たちのチャンピオン――に最後の敬意を捧げるために立ち上がった。
ハットンの街は彼を称えるために静止した。葬列の先頭には、彼が所有していた黄色の「リライアント・リーガル」がゆっくりと走った。行列は彼の自宅があるジー・クロスから出発し、両親レイとキャロルがかつて経営していた店を含むお気に入りのパブの前を通り、マンチェスター大聖堂へと向かった。
その車体には「New York, Paris, Peckham」と書かれていた――彼が4000ポンドで購入した〈トロッターズ・インディペンデント・トレーダーズ〉社の車だ。だが、ハットンの物語はその文字よりもはるかに遠くまで届いていた。
葬列は最終目的地である、彼が愛してやまなかったマンチェスター・シティFCの本拠地エティハド・スタジアムへ向かう前に、まずマンチェスター大聖堂で足を止めた。
その中では招待された900名が席に着き、さらに数千人のファンが外で待ち構え、古い聖堂の影の下で、かつてラスベガスを席巻したあの頃と同じ熱気で「There’s only one Ricky Hatton(リッキー・ハットンはただ一人)」の大合唱を響かせた。
聖堂の中にも、その歌声が壁越しに届いた――それはまるで、ハットンが輝かしい48戦のキャリアの中で何度もくぐった控室で耳にした歓声のようだった。
彼の入場曲「ブルー・ムーン」が刻まれた空色の棺が運び込まれると、人々は歌いながら、そして拍手を送りながら彼を迎え入れた。
棺を担いだ6人のうちには、弟のマシュー、長年のマネージャーであり友人でもあるポール・スピークの姿もあった。
その反対側には、ハットンの一人息子であるキャンベルも加わっていた。
自身の16戦のボクシング人生でも心の重みを背負いながら戦ってきた24歳の彼は、今度は父の棺の重みをその肩に感じていた。
そして壇上に立ち、900人の参列者を前にして父への最後の言葉を述べた。
「人生のあらゆる面で、僕は父を尊敬していました。どれほど寂しくなるか、言葉にできません。」
息子が父を失う時、世界は変わる――もう以前のままではいられない。
かつてハイドのジムで父とスパーリングをした少年キャンベルにとっても、それは同じだった。
娘のミリー(13歳)とファーン(12歳)も、あらかじめ録音されたメッセージで別れの言葉を送った。
彼女たちはまだ整理のつかない思いを言葉にし、胸を締めつけるような弔辞を残した。
「どうしてそんな気持ちになってしまったの?」とミリーは語りかけた。
「どうして自分の気持ちを誰かに打ち明けてくれなかったの?」
「お父さんが私の腕を取ってバージンロードを歩いてくれることも、私の子ども――お父さんの孫――に会うことも、私が学校を卒業する姿を見ることも、そして大人になっていく私を見ることも、もう二度とないんだと思うと、胸が張り裂けそうです。」
数千人が集まり、歌い、旗を振り、グラスを掲げた――だが、これは祝祭ではなかった。
特にミリーの弔辞は、ハットンの輝かしいキャリア、地元の少年から
ラスベガスのスターへと駆け上がったサクセスストーリー、そしてマンチェスターの“最愛の息子”としての称号――そうした華やかな賛辞の裏側に、深く傷ついた家族がいるという現実を突きつけるものだった。
彼らには、心を癒やすための時間と静かな場所が必要だ。
すべての弔辞と祈りが終わると、棺は再び6人の男たちの肩に担がれ、葬列は東へ――エティハド・スタジアムへと進んだ。そこでは、親しい友人や家族が集まり、最後の別れを告げる静かな時間が設けられた。
上空ではヘリコプターが広角映像を撮影し、地上では報道陣が大聖堂を背景に最終のレポートを伝えていた。
街のパブでは、何百人もの人々がギネスを手に掲げ、姿を消したチャンピオンの話に花を咲かせていた。
「ナイジェル・ベン、ジョー・カルザゲ、フランク・ブルーノ、そしてリッキー・ハットン」――
かつて彼は、自らの立ち位置をイギリスのボクシング史に名を刻む偉大な4人の一人としてそう語った。
「リッキー・ハットンの名前が、俺のヒーローたちと並んで語られる――そんな夢のようなことが起きたら、きっと一生その夢から覚めたくないね。」
だが、彼にとって本当に大切だったのは――ただ「みんなの仲間」であることだった。