フロイド・メイウェザー・ジュニア
2007年12月8日 MGMグランド(ラスベガス、ネバダ州)
タイトル:Ring、WBCウェルター級
第二の故郷。
労働者階級の英雄
リッキー・ハットンがP4Pキング、
フロイド・メイウェザー・ジュニアに挑むため、約3万人の歌う英国人ファンが大挙ラスベガスに押し寄せたとき、ラスベガスはまさにそう呼ぶにふさわしい場所となった。
ハットンは3月に
「ザ・リング・マガジン」に対し「まるで善玉の警官と悪玉の警官だった」と語った。「俺はファンのために戦う“人民の王者”で、いい試合を見せることを大事にしていた。一方でフロイドは俺とは正反対で、ファンのことなんて関係なく、すべてが金のためだった。だから盛り上がりとしては最高だった。スタイルのぶつかり合いであり、人格のぶつかり合いでもあった。俺の信念とフロイドはすべてが正反対で、決して分かり合えなかったから、ちょっとした敵意も生まれたんだ」
メイウェザー(38勝0敗、25KO)は同年5月、
オスカー・デ・ラ・ホーヤに12回スプリットデシジョンで勝利し、WBCスーパーウェルター級王座を獲得していたが、ハットン(43勝0敗、31KO)戦にはウェルター級に戻って臨んだ。
その6か月前には、かつてメイウェザーとも対戦したホセ・ルイス・カスティージョをスーパーライト級戦で4回TKOに下し、印象的な勝利を挙げていた。
両陣営は交渉に入り、時間をかけた末になんとか合意に至った。
「多くは電話でのやり取りだったけど、弁護士と親父を連れて何度かラスベガスにも行った」と彼は振り返る。「何度も会議を重ねて、最終的にまとまるまで簡単な仕事じゃなかったのを覚えている」
「アンディフィーテッド」と銘打たれたこのイベントは、5都市を巡るプロモーションツアーで幕を開けた。ロサンゼルスで始まり、グランドラピッズ、ニューヨークを経て大西洋を渡りロンドンへ、そして最終地マンチェスターで締めくくられた。チケットは150ドルから1000ドルまでの価格帯で発売され、35分で完売した。
ハットンは試合間に体重を大幅に増やすことで知られており、キャンプ入り時には約13ストーン(182ポンド)に達していた。しかし今回は通常のスーパーライト級リミットではなく、7ポンドの余裕があるウェルター級で戦うことができた。
「いいキャンプだったよ」と、南米から4人のスパーリングパートナーを雇ったハットンは語った。「フロイド戦で良い戦いができた要因のひとつは、俺がウェルター級で戦えたことだと思う。ルイス・コラーゾを倒してWBAウェルター級王座を獲得していたことを忘れないでくれ。その試合での経験を活かして、7ポンド上げた状態で、メイウェザー戦ではさらに良くやろうと思っていたんだ」
「ウェルター級に上げた後、再びスーパーライト級に戻ってフアン・ウランゴやホセ・ルイス・カスティージョと戦った。カスティージョ戦での俺のパフォーマンスの内容を見て、フロイド・メイウェザー戦のオファーが来たんだと思う」
「コラーゾ戦を振り返ると、ちょっと重すぎたんだ。普段は140ポンドで計量してリングには154ポンドで上がるんだけど、コラーゾ戦では147ポンドで計量して、リングに上がったときは163.8ポンドもあった。そのせいで動きが鈍くなり、スピードも落ちてしまった。だからメイウェザー戦では、計量は145ポンドくらいにして、リングに上がるときは154ポンドにしたんだ。そこが一番力を発揮できる体重だからね。フロイドのほうが体格的には大きいけど、俺は自分が一番いいパフォーマンスを出せる体重で臨む必要があった」
「いい判断だったと思うよ。序盤ではフロイドに問題を与えられたからね。もしコラーゾ戦の時みたいな状態で臨んでいたら、一発も当てられなかったと思う」
当時のハットンのスター性は絶大で、航空会社は彼の地元マンチェスターからラスベガスへの直行便を用意していた。
「信じられない光景だったよ」とハットンは誇らしげに語った。「観光客なんて一人もいなくて、飛行機に乗ってるのはみんな試合を観に行く人たちだけだったんだ」
ハットンはそれ以前にラスベガスで2試合を経験しており、そのことも大きな糧となった。
「初めてのフアン・ウランゴ戦では、2週間前に現地入りしてカジノに滞在したんだけど、結果的にカジノのエアコンの中で過ごしてしまって、まだ右も左も分からない素人同然だったんだ」と彼は打ち明けた。 「スイートルームでパリスに滞在したんだけど、あれは最悪の選択だった。カスティージョ戦、そしてメイウェザー戦に向けては、その経験から学んだよ。」
「ストリップから少し離れたところにアパートを借りて、シェフを雇って料理を全部任せ、スパーリングパートナー用にもすぐ近くにもう一軒アパートを借りたんだ」
週の最初のイベントはMGMグランドでの到着セレモニーで、ボクシング界にこれから始まる一戦を強烈に印象づけた。
「最高だったよ。ホテルのロビーに入ってオープニングセレモニーに臨んだとき、まるでマンチェスターのディーンズゲートを歩いているみたいで、本当に信じられない光景だった」と彼は振り返った。
「フロイドにとっても少しは圧倒されるものがあったと思う。彼は地元で戦っていたけど、もし俺がマンチェスターでフロイドとやって、ホテルのロビーやバーやレストランに3万人のアメリカ人がいて歌ってたら、きっと俺にも影響があったはずだ。フロイドはフロイドで、本当に凄いし、どんな状況にも適応できるけど、それでも多少はカルチャーショックを受けたと認めると思うよ」
両者は最終記者会見でも冷静さを保ち、目前に迫った大一番へ向けてエネルギーを温存していた。
「フロイドはずっと謙虚で落ち着いていたのを覚えている。メディアツアーのときは本当に無礼だったけど、フロイドの性格は分かっていたから、気にせず受け流していたんだ。記者会見前にホテルで英国のファンの熱気を目の当たりにして、黙っていたほうが賢明だとフロイドは思ったんだろう。プロモーションの段階では全然違うことを言っていたけど、試合はもう売れていたから、あの時は100パーセントの敬意を示してくれたと思う」
しかし前日の計量では状況が一変した。1万人のハットン支持者が「唯一無二のリッキー・ハットン」と歌いながら声援を送る敵意むき出しの雰囲気の中、両者は147ポンドのリミットをクリアし、フェイスオフで向かい合った。
試合週を通じて、英国人ファンは強烈な存在感を示した。
「MGMのビールが売り切れになって、他のカジノに取り寄せなきゃならなかったんだ」と彼は笑いながら語った。「バーやテーブルでの売上がMGMの歴史上で最高額を記録したと言われたよ。それだけ熱狂的で、本当に誇らしく感じた」
試合当日、ハットンが轟音のような歓声の中リングへ歩みを進めると、アリーナは爆発的な盛り上がりを見せた。
「本気でフロイド・メイウェザーに勝てると信じていた」と彼は語った。「数合わせのためにリングに上がったんじゃない。勝つためにリングに上がったんだ」
「ゴングと同時に飛び出してメイウェザーを捕まえたら、やつは後ろによろめいた。仕留めにいったんだ。俺の得意はボディショットで、プレッシャーをかけ続けようとした。捕まえたと思ったその時から、距離を詰めるたびにレフェリーのジョー・コルテスが試合を止めてばかりで、そこから勢いを失っていったんだ」
「試合では相手と戦いに集中しなきゃならないのに、一度集中を乱されると半分は負けたようなものだ。レフェリーは完全に俺に不利だったし、残念だったよ。カスティージョ戦のときは自由にボクシングさせてくれたのにね。フロイドに勝てたとは言わないけど、少なくとも公平に勝負するチャンスはあったはずだ」
「トレーナーのビリー・グラハムが『リック、もう無理だ』と言ったんだ。俺はKOを狙いにいったけど、歴史が示す通り、逆に自分がKOされてしまった。本当に打ちのめされたよ」
ハットンは地元の病院に搬送された後、滞在先に戻って失意を紛らわせた。その後は恋人のジェニファーや親しい仲間たちと共に数日間ラスベガスに滞在した。
「本当にどん底で、そのままイングランドに帰ったんだ」と彼は打ち明けた。「何か月も鬱状態が続いて、それが自分のうつ病の始まりだった」
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