ジム・ランプレーは緊張していた。先週末、タイムズスクエアで開催されたターキー・アッ=シェイフ主催の三大タイトル戦で実況を務める数時間前のことだった。
30年間にわたりHBOの実況を担当し、その道の最高峰と広く認められている彼にとって、ファイターたちを除けば、誰よりも多くを懸けている人物だった。
「HBOで別れを告げてから、6年以上も実況席に戻ることなく時が過ぎるとは思わなかった」とランプレーは認める。「その間、誰も自分を呼び戻そうとしないことに落胆しながら過ごしてきた。今夜の実況が自分の評判にどんな影響を与えるかを考えて、不安になったり、死ぬほど怖くなったりしなければ、プロではない。今夜が終われば、“ランプレーはもう衰えた”と言う人もいれば、“素晴らしかった”と言う人もいるだろう。自分の目標は、最も厳しい批評家が『これぞジム・ランプレーだ』と言うような出来を見せることだ。」
ランプレーがスポーツキャスターとしての地位を築く道のりは、彼の出身地ノースカロライナ州から始まった。ノースカロライナ大学チャペルヒル校で学び、1974年にコミュニケーション学の修士号を取得。その後、幸運が訪れた。ABCが大学フットボールの中継でサイドラインリポーターとして、大学生に近い年齢のアナウンサーを求めていたのだ。全米規模のオーディションが行われ、ジムがその役を射止めた。25歳で彼は地上波テレビに登場することとなった。
ランプレーはABCに12年間在籍し、カレッジフットボールの実況へとステップアップ。『ワイド・ワールド・オブ・スポーツ』では世界を飛び回り、ハワード・コセルがボクシングから退いた後は、プロボクシングの実況も担当した。1987年にはCBSに移籍し、スポーツ中継に加え、ロサンゼルスのKCBSで夕方のニュース番組の共同キャスターも務めた。その後、NBCに移り、NFL、ウィンブルドン、オリンピックの中継を担当した。
ランプレーが初めてプレミアムケーブル局で実況を担当した試合は、1987年8月15日にサントロペで行われたクルーザー級のダブルヘッダーで、ショウタイムで放送された。エベンダー・ホリフィールドがオジー・オカシオをノックアウトし、ドワイト・ムハンマド・カウィもリロイ・マーフィーを倒した。「浜辺にはトップレスの女性たちが日光浴していてね」とジムは懐かしそうに振り返る。「プレミアムケーブルだったから、監督がその様子を映したんだ。」
その後、HBOから連絡が入った。
1988年3月20日(マイク・タイソン対トニー・タッブス)から2018年12月8日まで、ランプレーはボクシング史上最高のイベントの数々に実況という“音”を添えてきた。ボクシングとそのビジネスを深く理解し、展開する試合を簡潔な言葉でまとめる能力を持ち、視聴者の注意を引きつける力強い声に恵まれていた。リングサイドに彼がいることで、試合の重要性が一段と高まるのだった。
HBOで34年間にわたりボクシングのメイン解説者を務め、24年間ランプレーと共演したラリー・マーチャントは、後にこう振り返った。「ジムが手を抜いたと感じた放送は一度もなかった。あのジョー・ディマジオの言葉を思い出すよ——“観客の中には今日初めて自分のプレーを見る人がいるかもしれないし、これが最後になるかもしれない。それだから毎回全力を尽くすんだ”ってね。それがジムだ。いつも完璧とは限らない。誰だってそうさ。でも、彼が間違えたのを見たことは一度もない。非常に複雑な仕事をまるで簡単なことのように見せる本物のプロフェッショナルだ。どんなスポーツでも、彼ほどのレベルであの仕事ができる人間はほとんどいないよ。」
ランプレーは現在76歳。5年前にカリフォルニアからノースカロライナ州へ移住し、チャペルヒル郊外の6.2エーカーの土地にある改装済みの農家で、妻のデブラと共に暮らしている。母校であるノースカロライナ大学ではアメリカのニュースメディアに関する講義を担当し、大学1年生のときに『デイリー・ター・ヒール』紙のスポーツ編集長を務めていたアート・チャンスキーの協力を得て、回顧録『
It Happened!: A Uniquely Lucky Life In Sports Television(起きたんだ!スポーツテレビ界での特別に幸運な人生)』を執筆した。
2023年9月、PPV.comはランプレーを起用し、カネロ・アルバレス対ジャーメル・チャーロ戦の配信中にブランドの宣伝と記事による解説を担当させた。ジムはボクシング界から温かく迎えられた。その後もPPV.comは彼を継続的に起用し、関係者たちもその動向に注目した。
DAZNボクシング部門の責任者であるクリス・グランヴィルは、2月22日にサウジアラビア・リヤドで行われた
アルツール・ベテルビエフ対ドミトリー・ビボルの再戦で、ランプレーに「第3の椅子(サブ実況)」の役割を打診したが、ランプレーはこれを断った。その後、ターキー・アッ=シェイフがWWEのCEOであり、かつてランプレーの代理人でもあったニック・カーンに依頼し、タイムズスクエアでのイベントで実況を務めてもらえるよう契約の仲介を頼んだ。
アナウンサーは重要である。もしその主張を疑うなら、ジョン・マッデンがアメリカンフットボールのテレビ観戦体験にどれほどの影響を与えたかを見ればいい。そしてアナウンサーの存在はボクシングにおいて特に重要だ。多くのスポーツでは、ファンは特定の選手やチームに愛着を持ち、シーズンを通じてそれを追いかける。しかしトップクラスのボクサーは今や年に1〜2試合しか戦わないため、放送局のアナウンスチームがブランドの要となる。
HBOでボクシングが栄えた理由の一つは、ランプレー、マーチャント、ジョージ・フォアマン、エマニュエル・スチュワード、ハロルド・レダーマンといった顔ぶれが中継に一貫性をもたらしていたからだ。彼らこそがブランドだった。実際、DAZNのボクシング中継がアメリカ市場で浸透しない要因の一つは、番組ごとにアナウンサーが変わり、いわゆる「Aチーム」ですら視聴者に定着していないことにある。
とはいえ、ランプレーには5月2日のタイムズスクエア大会に向けて膨大な準備が必要だった。HBO時代はボクシングの現場にどっぷり浸かっていたが、それも過去のこと。2018年以降、彼はボクシングの世界から離れており、年齢も重ねた。
「そういった要素が5月2日の準備に影響を与えないとしたら、私は正気じゃない」とランプレーはアッ=シェイフのオファーを受けた後に語った。「これは大変な仕事であり、キャリアで最も過酷な準備になる。私はリサーチャーを雇い、HBO時代に自分が実況した試合を見返して、うまくできていた点を思い出している。読めるものはすべて読み、タイムズスクエア大会に出場する選手たちの映像も見ている。試合の実況はスポーツキャスティングの中で最も主観的な仕事だ。試合中にポイントのカウントはなく、ファーストダウンやヤードマーカーのような指標もない。だから私は、試合中のすべての瞬間でベストを尽くさなければならない。」
そして、もう一つ問うべきことがあった。
タイムズスクエアでのこの興行は、ターキー・アッ=シェイフによるボクシング界支配を狙った取り組みの一環であり、経済的・政治的な意味合いも多分に含まれていた。そこで疑問が浮かぶ——ランプレーは放送中に発言を控えるようなことはあるのか?
「私がどんな発言をし、どんな言い方をするかについては、30年以上にわたる具体的な実績がある」とジムは答えた。「今回私を起用した人たちは、私が過去にどのような放送をしてきたかを知っているし、それを変えろと誰からも言われていない。」
ランプレーは試合の4日前にニューヨーク入りした。週の前半は家族と過ごし、『ニューヨーク・タイムズ』から無名のボクシング系ポッドキャストまで、100を超えるメディアのインタビューに応じた。それらのインタビューの一部は金曜夜に彼が実況する試合に関連し、また一部は自身の著書のプロモーションを目的としたものだった。木曜からはタイムズスクエアでの試合に完全に集中し、タイトルマッチに出場する6人の選手にインタビューを行った。
「これが飽きることは決してない」と、運命の時が近づく中でジムは語った。「でも不安はある。今後も解説の仕事を続けられるかどうかは、今夜の受け入れられ方と自分の出来次第だ。制作の流れはHBO時代とは違うが、マイクの前での自分の仕事は今までと変わらない。」
DAZNの配信は午後5時に開始。冒頭ではマイク・タイソン、パット・マカフィー、ケイト・スコットによる紹介セグメントが放送され、午後5時7分、ランプレーが初めて画面に登場。共に実況を務めるのはアントニオ・ターバーと『リング誌』のマイク・コッピンジャー。HBO時代のビッグイベントではタキシードを着用していたが、今回は開いた襟の白シャツにスポーツジャケットという装いだった。全5試合のカードを彼がすべて実況した。
第1試合は直前に加えられた3ラウンドのアマチュア戦で、NYPD(ニューヨーク市警)の警察官ジョエル・アレンと、FDNY(ニューヨーク市消防局)の消防士ジェームズ・ジェナリが対戦。ランプレーの解説は控えめで、まるで野球選手が打撃練習でウォームアップするかのようだった。試合はジェナリが判定勝ちを収めた。
続いて行われたのは、注目の日本人プロスペクト、
堤麗 斗のプロデビュー戦だった。彼は50対1の大穴であるレバール・ウィッティントンと対戦し、6ラウンドの判定勝ちを収めた。ウィッティントンは全力で戦ったものの、実力差は明らかだった。
そして、メインカードの試合が始まった。
テオフィモ・ロペスが調子に乗っているとき、彼は非常に優れたパフォーマンスを見せる。
この日のアーノルド・バルボサ戦では、すべてが噛み合っていた。ロペスは試合のペースを支配し、バルボサよりも積極的に攻め、より高度なボクシング技術を見せ、パンチの威力でも上回った。ラウンドごとにポイントを重ねていき、バルボサは流れを変えるための“プランB”を持ち合わせていなかった。ジャッジ三者の採点——118-110、116-112、116-112——は、ロペスの勝利を正確に反映していた。
その後の2試合は、実況者にとって難しい課題を突きつける展開となった。
デビン・ヘイニー対ホセ・ラミレス戦(ヘイニーが10対1の大本命)は、ひどい試合だった。1年前、ライアン・ガルシアに3度のダウンを喫して以来のリングだったヘイニーは、パンチを出すのを恐れているように見えた。実際には恐れていなかったかもしれないが、戦いぶりはまさにそれだった。リングを逃げ回り、まともに打ち合う場面はほとんどなかった。一方のラミレスはキャリアの終盤に差しかかっており、動きは鈍く、足も重く、リングをカットする術すら見いだせなかった。
現代の実況者には、選手に迎合し、美辞麗句で“ヘイニーのディフェンススキル”を称賛したかもしれない者も多い。しかし、ランプレーは率直だった。試合展開を正直に伝え、11ラウンド終了時には視聴者にこう告げた――「これまでのところ、大したドラマはありませんね」。最終ラウンド残り30秒には「この試合で誰も誰かを痛めつけることはなかった」と語った。
判定はヘイニーの大差による勝利だったが、「彼の次のPPVを楽しみにしている」という声がどれほどあるだろうか。
最終試合は、ライアン・ガルシア対ロリー・ロメロ。数か月前、アッ=シェイフはガルシアとヘイニー間の訴訟を和解させ、今年後半にリヤドでの再戦を実現させるべく動いていた。
この試合、ガルシアは8対1の本命としてリングに登場。しかし、彼の出来は最悪だった。タイミングはずれ、バランスは悪く、闘志もなく、練習不足が露呈した。2ラウンドにロメロの左フックでダウン。以降は両者とも決定打に欠ける展開となった。7ラウンド、ランプレーは「このポーズと見つめ合いばかりの展開」と嘆き、10ラウンドには「ライアン・ガルシアにとって扉が閉じようとしている」と警告した。
判定は118-109、115-112、115-112でロメロの勝利。内容を裏付けるスコアだった。
最後の2試合を振り返ると、ヘイニーとラミレスの合計パンチ数は503発で、コンピュボックスの12ラウンド試合における歴代3位の少なさだった。しかし、その記録もわずか1時間後に破られた。ガルシアとロメロの合計パンチ数は490発。さらに悲しいことに、その翌日リヤドで行われたスカル対カネロ戦では、まるで陸上競技のような内容となり、両者合わせて史上最少の445発という記録を更新した。
ランプレーのブランクは、10年間リングを離れていたジョージ・フォアマンほどではなかったが、7年近くマイクの前を離れていたのは確かに長い。それだけに、「ジム・ランプレーは、やはりジム・ランプレーだった」という事実は心強い。
ただ一つ、金曜夜に欠けていたものがあった。
HBO時代、ランプレーは30年にわたってファンに卓越した実況を届けてきた。だが、彼が最も記憶に残してきたのは、歴史的な一戦を伝えるその“声”だった。
偉大な試合こそが、偉大な実況者を生む鍵である。だが、タイムズスクエアでの試合には、その「偉大さ」や「ドラマ」が欠けていた。ランプレーがマイクから離れていたこの7年間に行われた、タイソン・フューリー、オレクサンドル・ウシク、アンソニー・ジョシュア、デオンテイ・ワイルダーによる7つの歴史的な激闘。その場に彼がいたなら、どんな実況が響いていただろうか――想像するしかない。
次に何が待っているのか、見届けよう。
トーマス・ハウザーへの連絡は、[thomashauserwriter@gmail.com] まで。最新作『
MY MOTHER and me』は、Amazonで購入可能なパーソナル・メモワール。2004年、ハウザーはボクシング記者協会(BWAA)よりキャリア功労賞であるナット・フライシャー賞を受賞。2019年には、ボクシング界最高の栄誉である国際ボクシング殿堂入りを果たした。