「敵陣の奥で(Behind Enemy Lines)」は、ボクサーが自分の敵地、つまり相手の国で戦った経験を語る不定期連載企画である。
ラウシー・ウォーレン戦
2017年2月10日 アメリカ・オハイオ州トレド ハンティントン・センター
タイトル:WBAバンタム級
ザナト・ザキヤノフがラウシー・ウォーレンの持つWBAバンタム級王座に挑戦するためアメリカに到着した時、すでにプロとして10年のキャリアを積み、14カ国で試合を行っていた。
この“ボクシングの放浪者”は、2015年11月にモナコ・モンテカルロでヨンフレス・パレホを12回のスプリット判定で下し、WBA暫定王座を獲得していた。しかし、翌年4月にサッカーをしている最中に脚を負傷し、長期離脱を余儀なくされた。
その後、両陣営が合意に達し、ザキヤノフは11月下旬、
リッキー・ハットン、共同トレーナーのマイケル・ジャクソン、コンディショニングコーチのブレイン・ユーニス、そしてフィリップ・フォンデュの指導のもと、イギリス・マンチェスターでトレーニングキャンプを開始した。
チームはマンチェスターからアメリカへ直行便で渡り、さらにトレド行きの便に乗り換え、試合の約1週間前に現地入りした。記者会見は滞りなく終わり、翌日の計量では両者ともバンタム級リミットの118ポンドを難なくクリアした。
ウォーレンは116ポンド、ザキヤノフはそれより半ポンド重かった。
「自分としては少し軽すぎたかもしれない」とザキヤノフは
『ザ・リング・マガジン』に語った。「だから少し体重を戻す必要があった。計量後はイタリアンレストランに行ってパスタを食べたんだ。」
試合前夜はよく眠れ、翌朝は大一番に向けて体をほぐしたという。
「朝食をとり、新鮮な空気の中で20分ほど散歩し、その後ストレッチをした」と彼は説明する。「残りの時間は、これから起こることに向けてメンタルを整えていた。」
ザキヤノフは試合の1時間半前に会場のハンティントン・センターに到着した。この試合は、ロバート・イースター・ジュニアがIBFライト級王座を防衛するメインイベントの前座として、Bounce TVで放送された。
「控室を与えられて、着替えて手をテーピングした。すべて順調だった」と彼は振り返る。
「入場のアナウンスが流れてカーテンが開くと、目の前には大きなアリーナが広がっていた。それまであんな大きな会場で戦ったことはなかった。観客は約1万1000人いたと聞かされた。すごく大きな歓声で、あの雰囲気は初めての経験だった。」
ハットンは試合の立ち上がりで慎重に入る作戦を立てていたが、その落ち着きすぎたアプローチが、ザキヤノフにとって早くも苦しい展開を招いた。
「少し落ち着きすぎていたと思う」と彼は語る。「ウォーレンは非常に速く、予想以上だった。自分は様子見のパンチを出していたが、彼はすぐにカウンターを返してきて、見えないパンチをもらってしまった。その結果、最初のダウンを喫した。」
「最初のダウンの直後にもう一度倒された。グローブ越しに頭頂部を打たれ、倒れてしまったんだ。」
「最初のダウンのときはあまり考える暇もなかったが、2度目のダウン後、立ち上がる8秒間の間に、まるで人生全てが頭をよぎった。『3カ月も家を離れて、それがこんな形で終わるのか?そんなことは許せない』と自分に言い聞かせた。精神的に立て直し、試合が再開されて何とかラウンドを生き延びた。」
「コーナーに戻ったとき、『どうなってもいい。次のラウンドで終わっても構わない。とにかく戦い抜こう』と思った。」
悲惨な第1ラウンドを終えると、ハットンは的確な指示を出した。「ザナト、距離を取って戦うな。彼はお前より速い。外でボクシングしていたら、的にされるだけだ。中に入ってプレッシャーをかけろ。」
その瞬間から、ザキヤノフはその通りの戦いを始めた。
「試合が徐々にこちらの流れになっていった」と彼は言う。「リズムをつかみ、攻撃的に戦い始め、最初に立てた戦術がうまく機能し始めた。」
「自分のスタイルで戦い始めてからは、12ラウンドまであっという間だった。
最後のゴングが鳴ったとき、正直に言えば、相手の地元での試合だから判定で勝てないかもしれないと思っていた。でも、全力を尽くした満足感があった。」
採点が発表されると、最初のジャッジは115-111でウォーレンを支持したが、残る2人のジャッジが116-110と115-111でザキヤノフを支持した。
「そのときの感情を正確に思い出すことはできない」と彼は言う。「あの瞬間は感じるしかない。言葉で表せない。もちろん、心の底から嬉しかった。」
ドーピング検査を終えた後、ザキヤノフはホテルに戻り食事をとった。
「カザフスタンからの電話がひっきりなしにかかってきたのを覚えている。あまりにも多かったので途中で電話を切らざるを得なかった」と笑う。
翌日、チームとともにマンチェスターへ戻り、2日間の休養を楽しんだ後、帰国の途についた。
「アスタナに到着すると友人たちが出迎えてくれ、記者からもいくつか質問を受けた。翌日には正式な記者会見が開かれ、メディアセンターで試合について答えた。」
「ペトロパヴロフスクの市長にも特別に招かれ、贈り物として3LDKのマンションをもらったんだ。」
過去を振り返ると、彼は2013年にスイスで初めて出会ったリッキー・ハットンへの敬意を隠さない。
「彼の
訃報を聞いたときは本当にショックだった。リッキーはとても陽気で、ポジティブな人だった。」
「自分がチャンピオンになれたのは、リッキーの尽力があったからだ。彼はプロモーター兼トレーナーとして多大な労力と資金を注ぎ込んでくれた。その結果がトレドでのウォーレン戦の勝利につながった。あれは私たちの努力の結晶であり、リッキーには心から感謝している。」
(翻訳協力:エドゥアルド・ハブロフ)
The Ring誌は彼の協力に感謝の意を表する。
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