ロンドン――プロモーターのフランク・ウォーレンが、
46歳で日曜早朝に亡くなった偉大なるリッキー・ハットンに感情を込めた追悼の言葉を捧げた。
今からおよそ28年前、ウォーレンはマンチェスターのボクシングトレーナー、ビリー・グラハムと会い、キューバでのジュニア世界大会で惜しくも結果を逃した有望なパンチャーについて話を聞いた。
イングランドに戻った10代のパンチャー、リチャード・ハットンはプロ転向を望んでおり、グラハムはウォーレンなら正しく導けると考えていた。
そしてそれは、39戦39勝、さらにはRing、IBF、リニアルのスーパーライト級王座を含む関係の始まりとなった。
ウォーレンは日曜朝、
「ザ・リング・マガジン」に対し「ビリー・グラハムとのあの出会いを今でも覚えている。彼は私の前に座って『すごい子がいる、君が契約しなければならない』と言った。我々はその場で座って契約をまとめたんだ」と語った。
「彼は本当にまだ若い少年で、生意気なところもあったが、すぐに打ち解けた。何か特別なものを持っていると分かったし、結果的にビリー・グラハムの言う通りだったんだ」
ハットンが3万人ものファンを引き連れてラスベガスへ乗り込むようになるのは後のことだった。彼のプロデビュー戦は1997年9月11日木曜、ウィドネスのキングスウェイ・レジャーセンターで行われ、ロビン・リードがWBC世界スーパーミドル級王座をハシン・シェリフィ相手に防衛した大会のアンダーカードだった。ハットンは当時8勝48敗3分のジャーニーマン、コリン・マコーレイを初回で退け、少数ながら応援に駆けつけたファンを喜ばせた。
「ウィドネスでのデビュー戦ではチケットを3枚か4枚しか売れなかったと言っていたと思うが、そこから人気はどんどん膨らんでいった。ラスベガスにたどり着いた頃には、まるで大移動のようだったじゃないか。誰もが彼の試合を観たいと望んでいた。」
「彼はおそらく、これまで英国から出た中で最も人気のあるファイターだ。史上最大のファン・フェイバリットだったと言っても過言ではないだろう」
デビューからの8年間で、ハットンはセントラルエリア王座、英国スーパーライト級王座、そして現在は消滅したWBU王座を獲得し、キャリア最大の夜へと歩みを進めた。それはプロモーターとしてのウォーレンにとっても最高の瞬間のひとつだった。
「コスティア・チューは世界ナンバーワンだった」とウォーレンは語る。「彼は偉大なファイターであり、リッキーは圧倒的なアンダードッグだったんだ」
だが2005年6月4日、マンチェスターのM.E.N.アリーナには魔法のような空気が漂っていた。ハットンが王者を打ち倒したその夜は、まさに異様な熱気に包まれていた。試合開始が海外のテレビ中継に合わせて現地時間午前2時頃となったこともあり、全てが特別な一夜となった。しかし眠気をこらえていた観衆は、当時26歳のアイドルが見せた奮闘に熱狂した。その戦いぶりは圧巻で、同時代のパウンド・フォー・パウンド偉大な王者チューが、激闘の11ラウンドを終えたところでコーナーに座ったまま棄権を余儀なくされるほどだった。
「当時の彼のキャリアにとって最適なタイミングを待ち、リッキーは結果を出した」とウォーレンは語った。
「チューが勝つと誰もが思っていたから、ずっと試合を組もうとしていた。しかし私は『いや、もう少し待とう』と言ったんだ。我々はそうして待ち、そして正しいタイミングでゴーサインを出した。あとはリッキーがやってのけたんだ」
「彼はしばらくの間、この試合を心底渇望していて、最終的に実現させることができたんだ」
キャリアが大西洋を渡り、ボストン、そしてラスベガスへと広がる頃には、マンチェスター出身の少年とその集客力はまったく別次元の存在になっていた。「リッキー・ハットンはひとりしかいない」――有名なチャントがそう叫ぶように、彼のような存在は二度と現れないだろう。
「要するに、リッキー・ハットンは庶民のヒーローだった」とウォーレンは付け加えた。「それが彼という人間なんだ。」
「彼はファンにとっての庶民のヒーローだ。だからこそ彼らは彼を愛した。マンチェスター・シティが弱かった頃ですら応援していた。彼が人々とつながったのは、彼自身が人々の一部だったからだ。実にシンプルなことなんだよ」
「ファンは常に彼を身近に感じていて、彼は誰の頼み事も断らなかった。本当に誰に対しても気さくで、その点で誰も失望させることはなかった。」
「このニュースは本当に、本当に悲惨だ。あまりに酷い。ボクシング界は当然、彼を悼み、彼が私たちに与えてくれた数々の素晴らしい夜と偉大な試合を思い起こすだろう。」
「心は彼の家族と共にあり、心からお悔やみを申し上げたい。家族が彼との幸せな思い出から少しでも慰めを得られることを願っている。」