元世界王者
リッキー・ハットンが46歳で死去したという知らせを受け、日曜日、ボクシング界は深い悲しみに包まれた。
英国ボクシング界の象徴であるハットンは、9月14日(日)朝、グレーター・マンチェスターのハイドにある自宅で死亡しているのが発見された。死因に不審な点はないとされている。
熱狂的なファンから「ザ・ヒットマン」として愛されたハットンの訃報は、数千人規模で彼の試合を観戦しに駆けつけたその人気ぶりを物語るように、スポーツ界全体に衝撃を与えた。
そしてそのキャリアは、イギリス史上屈指のものとして長く語り継がれるだろう。ハットンは2012年11月25日未明、マンチェスター・アリーナで行われた涙の記者会見で正式に引退を表明した。ヴィアチェスラフ・センチェンコにTKO負けを喫し、最終戦績は45勝3敗(32KO)となった。
1978年10月6日、イングランドのストックポートに生まれたハットンは、ハイドのパブで育ったが、間もなくボクシングに挑戦するようになった。アマチュア時代は短かったものの、若きリチャード・ハットンが次々と相手をノックアウトする姿は大きな注目を集めた。18歳でフランク・ウォーレンのもとプロに転向したハットンは、そこから目覚ましい躍進を遂げ、やがて英国ボクシング史に残る名勝利のひとつへと結実した。
38戦無敗の戦績を積み上げたハットンは、2005年6月4日、マンチェスターのM.E.N.アリーナで伝説的なロシア生まれのオーストラリア人、コスティア・チューと対戦した。当時もチューは多くの人からパウンド・フォー・パウンドのナンバー1と見なされていたが、ハットンはその牙城を崩し、11回終了後にチューを棄権に追い込んだ。ハットンにとって最高の夜だった。
全盛期のハットンは140ポンド級で“モンスター”と呼ばれ、長年のコーチであり友人でもあるビリー・グラハムのもとで磨き上げた強烈なボディブローで数多くの対戦相手を屠ってきた。
チューを下してRingとIBFの王座を獲得した後、次戦でカルロス・マウッサをシェフィールド・アリーナで9回TKOに下し、統一王者となった。それはウェルター級転向への道を開き、
フロイド・メイウェザーや
マニー・パッキャオといったスーパーファイトへの扉を開く勝利となった。
まずボストンのTDガーデンでルイス・コラソに勝利し、その後、伝説となるラスベガスでの5度の戦いの初舞台へと進んだ。2007年1月20日、パリス・ホテルでのシンシティ初登場ではフアン・ウランゴに勝利し、続くトーマス&マック・センターでの試合では偉大なホセ・ルイス・カスティージョを4回TKOで下した。
母国での支持は最高潮に達し、MGMグランド・ガーデン・アリーナでメイウェザーと対戦する頃には、不況下にもかかわらず3万人もの英国人ファンが彼を応援するために海を渡った。
その夜、ハットンは10回でストップされ、歴史的な名ウェルター級王者の前に敗れはしたが、決して不名誉なものではなかった。むしろ特筆すべきは、彼を支えた圧倒的な声援であり、それが彼の名を英国スポーツ史に刻み込んだ。3万人のファンの誰一人として、リッキー・ハットンについて自分だけの特別な物語を持たない者はいなかった。彼は「我々のひとり」であり、その事実は決して変わることがなかった。
メイウェザー戦での敗北を受け入れるのに苦しんだハットンだったが、フアン・ラスカノとポーリー・マリナッジに勝利して再起し、再びMGMでパッキャオと対戦した。初回に2度のダウンを喫し、2回残り1秒でノックアウトされるという敗戦は、彼に大きな精神的打撃を与えた。
それから3年半後、ハットンはマンチェスターでセンチェンコ戦に臨み、パッキャオに敗れたことで残された心の悪夢を振り払う助けになったと強調した。第9ラウンド終盤まで、ハットンは3人の採点でリードして順調に試合を進めていた。だがその矢先、センチェンコがハットン自身の代名詞でもあったボディへの左フックを決め、試合を終わらせた。
その後、アリーナの奥で行われた記者会見で、ハットンは15年にわたるプロキャリアを振り返り、出席した記者一人ひとりに感謝を述べ、感情を込めてボクシング界に別れを告げた。涙も笑いもあった。それこそがハットンそのものだった。
ハットンは3人の子ども、息子のキャンベル、娘のファーンとミリーを残してこの世を去った。心からの哀悼の意を彼らと家族、友人たちに捧げたい。英国ボクシングは二度と同じではなくなる。