近年これほどまでにファンに自らの生活を明かしたボクサーは他にいないと言えるほど、
デイブ・アレンとジョニー・フィッシャーは観客との距離を縮めてきた。彼らは似たスタンスを取り、自己を茶化すようなユーモアと垣根のないファンとの交流を通じて、どのように、何を見せるかを問わず開かれた関係を築いてきた。
ある意味で
アレンはフィッシャーの先駆者であった。X(旧Twitter)以前の時代、アレンはファンと積極的に会話を交わし、自身の毎日の食事やガーデントレーニングの様子なども赤裸々に共有していた。
フィッシャーはこの路線を洗練させ、映像の質を高めつつ、父親とのユーモラスな日常を軸にした継続的なオンライン・シットコムのような発信を行い、自宅を開放して観客を家族の一員のように迎え入れた。
彼らはまた、それぞれ異なる形でボクサーとして生きる現実を明らかにしてきた。フィッシャーとその家族は特に、国内レベルで活動するボクサーにとって不可欠であるチケット販売の奮闘ぶりを広く発信してきた。一方でアレンは、依存症やメンタルヘルスとの個人的な闘いを公にし、さらに、国内レベルの試合や危険なスパーリングを通して生計を立てるという、ボクサーの経済的に厳しい現実についても包み隠さず語っている。
その独自の発信によって、アレンとフィッシャーはファンの共感と関心を引き出すことに成功した。でなければ、国内レベルのヘビー級選手がコッパーボックスを満員にし、DAZNのメインイベントを飾ることなどできなかったはずだ。もちろん、147日前にサウジアラビアで両者が引き分けた試合の判定を巡る論争に決着をつけるというサブプロットもあった。しかし、仮に判定の是正だけが売りであるならば、ボクシングの試合会場は毎日満員になるはずだ。
この試合が人々を惹きつけたのは、そこに登場した“人間”たちが魅力的だったからに他ならない。タイトルや実績はもちろん重要だが、それらは結局のところ、観客が「その人」に関心を持って初めて意味を持つ。
ボクシングのプロモーションはしばしば、タイトルや勝者が将来得る報酬といった「見返り」に依存して構築されがちである。これは物語の語り方としてはごく自然な構造であり、興行に限らず多くの商品の売り方とも共通している。
だが、試合の宣伝において未来の報酬ばかりが強調されると、ボクシングの本質である「人間」と「その瞬間」が置き去りにされてしまう。この2つこそが、試合に特別な空気を生み出し、まるで舞台劇の登場人物の一人であるかのように試合を彩る「雰囲気」を生むのだ。
8,000人の観客がサヴェージ・ガーデンの『Truly, Madly, Deeply』を合唱し、続いてジョン・デンバーの『Take Me Home, Country Roads』を同じように歌い上げたとき、フィッシャーがリングに上がり、歌声が止まると共に始まる試合こそが週末最大のイベントなのだと感じざるを得なかった。タイトルがかかっていようが、将来王座を獲得する可能性があろうがなかろうが関係ない。
フィッシャーを応援する観客が多数を占めた試合だったが、期待された結果は得られなかった。代わりに彼らの記憶に残ったのは、
アレンの強烈な左フックによるノックアウトであった。アレンは終始落ち着いた様子で試合に臨み、経験の浅い相手がプレッシャーと焦りからミスを犯すのを待つように、軽い足取りで前進し続けた。まるでスパーリングのようなテンポで圧力をかけ続け、ついにはその瞬間が訪れた。ノックアウトを決めた際のアレンの反応は静かで思慮深く、それが起こることを予期していたかのようであり、同時にその結果に対してどこか後悔すら感じているようでもあった。
フィッシャーが顔からマットに崩れ落ち、その後マスクを通して酸素を吸入していた最中、アレンはグローブを使って自身のチームや観客に向かって落ち着くよう静かにジェスチャーを送った。そして、自身のコーナーで一度だけ控えめに腕を上げただけで、友人であるフィッシャーを倒したことを祝うようなそぶりは一切見せなかったし、観客がそれを祝おうとするのも制するような姿勢を見せていた。
「俺は何度も見限られてきた。でも自分には能力があるって分かってた。このレベル、俺にとって最適なレベルなら、俺は厄介な存在なんだ」と、試合後のリング上でアレンは語った。「まだまだ俺が戦うべき相手はたくさんいる。このレベルでボクシングを続けるのが好きだ。良い試合ができるし、勝つ時もあれば負ける時もある。これが本質なんだ」
アレンは、彼の代名詞とも言える率直さで、この試合が何であったか、何ではなかったか、そしてボクシングの試合が本来どうあるべきかをあらためて示してみせた。
試合前のプロモーションでも、アレンはこの試合が「世界挑戦への登竜門」だとするような受動的な言説を否定し続けた。彼もフィッシャーも、「英国王座を取れたら最高」といった現実的なキャリアのピークに満足していることを公言していた。
ボクシングのインタビューでは、締めくくりに「次は誰と戦いたいですか?」と尋ねるのが通例であり、それはまるで「元気ですか?」という会話の始まりのような、無難で形式的なやり取りとなっている。今では反射的に口にされる慣習のようなものだ。しかし、これは誇り高きファイターたちにとって、将来の目標について大胆に語る格好のチャンスでもある。我々観客も、選手が他の選手に対して挑発的な発言をすることを期待している。そうした発言は話題を生み、プロモーターが商品として売り出す材料にもなるからだ。
だが今回の試合とそのプロモーション、そしてアレンの試合後の発言は、必ずしもそれが必要ではないことを証明してみせた。アレンの言葉を借りれば、「このレベルの試合」でも、内容とそれを作り出す人間次第で、観る者を惹きつけるには十分なのだ。
もちろん、世界トップレベルの試合の価値を否定するものではない。だがライブイベント、あるいは放送コンテンツとしての魅力という観点では、選手の実力がそのまま満足度に直結するとは限らない。また、才能が高ければ高いほど観客とのつながりが強くなるというわけでもない。
試合のレベルが視覚的に素人っぽくさえなければ、さまざまなレベルの試合でも広く楽しめる可能性は十分にある。観客が選手に共感し、感情的なつながりを持てる限り、それらの試合は魅力的になり得る。国内レベルのタイトル戦は、こうした試合を組み立て、個性豊かな選手たちを発掘するためのわかりやすく整った枠組みとなっており、イギリスのボクシング市場がその好例を示している。たとえば、ロンドンのヨーク・ホールで行われる都市内の特定地域の王者を決めるようなタイトル戦でさえ、世界タイトルマッチ以上に白熱した試合内容や熱狂的な観客を生み出すことがある。
一方でイギリス国外では、エリートレベルではない試合に対する冷ややかな視線が残っている。世界戦で負けただけの選手が「使えない」「期待外れ」などとレッテルを貼られるのもよくある話だ。そうした言説は、能力を信じて応援してくれたファンを欺いたとでも言いたげである。だが最終的に、この基準では「評価に値する選手」はほんの一握りしか残らない。世界中で週末ごとに何百もの試合が行われるこの競技において、それではあまりに狭量すぎる。
メディアやファンはしばしば、選手をアクションフィギュアのように扱い、自分たちの頭の中で自由に対戦カードを組み立ててしまうことがある。しかし、選手たちはれっきとした人間であり、職業的な側面だけでなく、私生活における弱さや限界までも含めてその姿を見せてくれるとき、ボクシングはどのレベルであっても素晴らしい舞台芸術へと昇華するのだ。
デイブ・アレンの言葉を借りればこうだ。
「競った試合。勝つこともあれば負けることもある。それこそがボクシングの醍醐味だ。だが、その面白さを感じるのに、世界のトップ0.01%の選手だけが必要だとしたら、ボクシングというスポーツが提供できる最高の試合と最高の夜を、あなたは見逃しているかもしれない。」