マイク・マッカラムが15歳のとき、彼は自分が入りたいと願う部屋と、その扉を開ける鍵の両方を目にした。
マッカラムは、ジャマイカ・キングストンにある伝説的なドラゴン・ジムで、キューバ出身のオースティン“ティーリー”タフの指導のもとトレーニングを積んでいた。ティーリーは母国キューバから持ち込んだ新たな技術体系を伝授しており、卓越したキューバ式アマチュアボクシングの厳格な技術習得に加え、接近戦への献身を説いていた。当時その門下にいたひとりが、年老いたウェルター級のバニー・グラントだった。グラントは1964年にWBC世界スーパーライト級王座に挑戦したものの、ジャマイカ初の世界王者という夢は届かなかった。その後の約10年間、彼は英連邦王座戦線の常連となり、代名詞であるボディワークで若き挑戦者たちをなぎ倒していった。
マッカラムは、1973年1月に母国ジャマイカで開催された史上最大のボクシングイベント、
ジョージ・フォアマン対ジョー・フレージャー戦のアンダーカードでマリオ・サウレナンと対戦するバニー・グラントの準備の様子を、ジムで日々見守っていた。このイベントは、地元のブックメーカーであり競馬愛好家、さらにリゾート経営者でもあったルシアン・チェンが仲介役となり、フォアマンとフレージャーの両者に合わせて約120万ドルを支払うことで政府と合意し、ナショナル・スタジアムでの開催が実現した。チケット収入やクローズドサーキット放送による利益を見込むとともに、このイベントを通じて国内のボクシング振興を図る狙いもあった。しかし、当時ジャマイカ・ボクシング管理委員会の会長だったマイク・フェネルによれば、アメリカ東海岸を襲った吹雪の影響で想定よりも収益は上がらなかったという。それでも、この大会がジャマイカのボクシング界にもたらした栄光の価値は計り知れなかった。
5ドルのチケットを手にしたマッカラムは、グラントがサウレナンを下す様子を観戦し、その1時間後にはジョージ・フォアマンがジョー・フレージャーを粉砕するという、ボクシング界の常識を覆す瞬間を目の当たりにした。満員のスタジアムで世界王者のベルトを掲げる男の姿は、マッカラムの心に深く刻まれ、自らもその光景の中に身を置く決意を固めるきっかけとなった。
その同じ年、当時15歳で正式な競技経験がわずか1年足らずだったマッカラムは、自分より10歳年上の相手を破ってナショナル・アマチュア・タイトルを獲得した。
「お前は大丈夫だ。お前はすごい奴だ」とグラントはマッカラムに語りかけた。
誰の人生にも、最初に助けてくれた人たちのような存在へと自分が成長していく時がある。そして運が良ければ、その人たちをも超えていく。
1976年のモントリオール五輪でジャマイカ代表として出場したマッカラムは、大会後にアメリカへと渡った。五輪で出会ったのが、アメリカ代表のキャプテンであるクリント・ジャクソンだった。マッカラムはテネシー州ナッシュビルで「ザ・シェリフ」と呼ばれるその男と親交を深めた。スパーリングパートナーとしての報酬、プロ初契約金、そしてジャクソンの留置場の掃除を手伝いながら得たわずかな収入で、1980年製のスカイブルーのマツダRX-7を購入した。
そのわずか4年後、マッカラムはミシガン州デトロイトにある名門クロンチ・ジムの一員となり、エマニュエル・スチュワードの指導とマネジメントのもとで世界トップクラスのジュニアミドル級選手へと成長していた。そして彼には新たなニックネーム「ザ・ボディ・スナッチャー(内臓狩り)」が与えられた。その名にふさわしく、マッカラムはクロンチの仲間たちのレバーを叩き続け、その姿に感銘を受けたトーマス・ハーンズの弟ビリーが、その異名を叫んだという。
マッカラムは当時の王者ロベルト・デュランをはじめ、ボクシング界のビッグネームたちと対戦する機会まであと一歩の位置にいた。しかしその夢は叶わず、デュランとの試合は同門のトーマス・ハーンズに回されてしまう。マッカラムはデュランの王座に対するランキング1位の挑戦者だったにもかかわらず、その座を奪われたのだった。
マッカラムは、その知らせを信じることができなかった。数か月前、彼はパートナーのイボンヌに「デュランに勝って世界王者になる」と約束していた。しかし、彼がクロンチ・ジムでその試合に向けた準備をしている間、イボンヌは心臓の開胸手術による合併症でこの世を去った。そして、その試合自体が実現しないことをマッカラムはまだ知らなかった。
この出来事——試合実現の不義、マネージャーであるスチュワードへの裏切られたような感覚、愛する人の死、そしてどれだけ偉大な実績を積んでもスポットライトが常に自分から外れていくという現実——は、マッカラムのキャリアに暗い影を落とし、彼自身がボクシングという競技をどう捉えるかにも大きな影響を与えることになる。
しかし、WBAの王座が空位となったことで、マッカラムには再びチャンスが巡ってきた。彼は、フォアマンとフレージャーがかつて拳を交えた伝説の会場でショーン・マニオンと対戦。体力強化のため、同じく不遇をかこっていたリビングストン・ブランブルとともにトレーニングに励み、ついにバニー・グラントが果たせなかった世界王座を手に入れた。
マッカラムは結局、ロベルト・デュランとも、同時代の“四天王”であるトーマス・ハーンズ、シュガー・レイ・レナード、マーベラス・マービン・ハグラーとも拳を交えることはなかった。歴史的には、彼らがマッカラムとの対戦を避けたというのが定説になっており、マッカラム自身もその神話に年月をかけて積極的に加担していった。
マッカラムにはキャリアを振り返って苦々しい思いを抱く理由が多くあったが、アボット&コステロやジェームズ・キャグニーの無表情なコメディを好む彼は、自身の不運について聞かれると、いつもユーモアを交えて火に油を注ぐような返しをしていた。例えば、シュガー・レイ・レナードに対戦を申し込んだ際、「アマチュア時代にお前は俺の弟を倒しただろ」と言われたと主張していた(実際にマッカラムはレナードの弟をアマチュアで破っている)。また、デュランに試合を申し込んだときは、「お前は悪魔だ」と言われたという。
マッカラムのキャリアを語るとき、不運なマッチメイクや実現しなかったビッグファイトに焦点が当たりがちだが、実際には彼が打ち破った優れたボクサーたちの名も忘れてはならない。ジュリアン・ジャクソン、ドナルド・カリー、ミルトン・マクローリー、スンブ・カラバイ、スティーブ・コリンズ、ヒロル・グラハムなど、錚々たる顔ぶれが並ぶ。
1994年を迎えた時点でも、マイク・マッカラムは驚くべきことに現役を続けており、依然として注目に値する存在であり、危険な男だった。1980年代の同時代の名ボクサーたちとの対戦を逃したにもかかわらず、1990年代の最高峰であるロイ・ジョーンズ・ジュニアやジェームズ・トニーと拳を交えたことは、彼のキャリアの持続力と卓越した技術を象徴する驚異的な偉業である。
当時、マッカラムは175ポンド(ライトヘビー級)で戦っており、今度はデトロイトを拠点とするもうひとりの伝説的トレーナー、エディ・ファッチの指導を受けていた。バーナード・ホプキンスとナジーム・リチャードソンの時代の前、ジョージ・フォアマンとアーチー・ムーアの後にあたるこの時期、マッカラムとファッチはまさにボクシング界の“年長コンビ”として知られていた。両者は本能的に惹かれ合ったようで、マッカラムがまだ競技者として若いうちから、ファッチが「ボクシング界から失われた」と語る繊細な技術を自然に使いこなしていた。
マッカラムは床に寝そべってシュガー・レイ・ロビンソンのVHS映像を観ながら、ファッチはソファに腰かけて細かいポイントを指摘し、ふたりは失われつつある黄金時代への共通の愛着を通して深い絆を育んでいった。
マッカラムとファッチには、15歳のときに地元スタジアムで運命的で心を動かす一夜を経験したという共通の原点もある。ファッチは陸上とバスケットボールに秀でた若者で、デトロイト・タイガースと、ニグロリーグのデトロイト・スターズの熱心なファンだった。
1927年、スターズの本拠地マック・パークで、タイガー・フラワーズ対ボブ・セイジのボクシングマッチが開催された。ファッチは、レクリエーション・シガー・ストアで販売されていた1ドルのチケットを手に入れられなかったのか、その夜スタジアムに忍び込んだ。そして試合を観た後、彼のヒーローはタイガースの二塁手チャーリー・ガーリンジャーから新たな“タイガー”へと変わったのだった。
フラワーズ自身も、すでに年齢を重ねた元ミドル級世界王者であり、この階級でその栄誉を手にした初の黒人ボクサーだった。彼は巧妙な“老獪な技術”を駆使して当時のライトヘビー級の強豪たちを手こずらせ、忙しく手を出し続けて判定勝ちを収め、当時の王者マクシー・ローゼンブルームとの対戦を見据えていた。
それから67年後、エディ・ファッチは自らの“タイガー・フラワーズ”を手にしていた。ファッチは、ジェラルド・マクレラン対ラマー・パークス戦(後にマクレラン対ギルバート・バプティストに変更)のアンダーカードで行われる、マッカラムの10回戦に向けて準備を進めていた。
この時期マッカラムはWBCライトヘビー級の第2位コンテンダーであり、同団体の王座を懸けたジェフ・ハーディング対ランドール・ヨンカー戦に照準を合わせつつ、実戦感覚を保つための“調整試合”としてリングに上がる予定だった。この“調整試合”こそがファッチ流の伝統であり、マッカラムは当初その重要性を理解していなかったものの、後に「常に鋭さを保てた」とその意義を実感することになる。
そしてそのアプローチの成果が結実したのが1994年3月4日。37歳になっていたマッカラムは、最終章の傑作とも言える試合を迎える。王者ハーディングが14か月のブランクを経て復帰を目指していたが、ヨンカー戦に向けたスパーリング中に負傷し、WBCは代役としてマッカラムを起用し、暫定王座戦として実施することを決定したのだった。
エルヴィス・プレスリーに似ていることから「キッド・ガラハッド」のニックネームを使っていた挑発的なランドール・ヨンカーは、試合前のイベントであらゆる手段を使ってマッカラムを挑発しようとした。紫のバンダナに垂れ下がるイヤリングをつけて計量に現れた彼は、マッカラムの腹部を指さして「その腹を見ろよ、まるでスペアタイヤだ!」と叫びながら嘲笑した。
その場には、メインイベントでジェラルド・マクレランを指導するために来ていたエマニュエル・スチュワードの姿もあった。マッカラムとの関係は長年にわたってどこか冷ややかだったが、両者の間には常に尊敬の念が存在していた。スチュワードは、ヨンカーが自ら仕掛けた罠に気づかぬまま踏み込んでいるのを見抜いていた。
「ヨンカーがマッカラムより口が達者なのは確かだ。でもリングの上ではまったく違う結果になるだろう」と、スチュワードは試合前に『モービル・レジスター』紙に語った。「彼はボクシング界で最もバランスの取れた選手かもしれない。マッカラムのような選手には、私はただただ畏敬の念を抱かざるを得ないよ。」
公の場では、マッカラムもファッチもヨンカーの派手な挑発に対して特に反論することはなく、壇上で笑いながらモービルの乱暴者が記者団を煽る様子を見ていた。しかしファッチは記者の前では、マッカラムの年齢を重ねても衰えない技術を、彼が敬愛するシュガー・レイ・ロビンソンと比較することに終始した。だが舞台裏では、マッカラムは自らの実力を見せつける覚悟を固めていた。
試合が始まると、Showtimeの解説陣であるスティーブ・アルバート、ファーディ・パチェコ、ボビー・チェズの3人は、マッカラムの年齢と体型について軽口を叩いた。一般的な基準では見事な体格であったが、かつての階級と比べればやや胴回りが大きく見えたためである。アルバートは冗談めかして、数か月後に殿堂入りを控えていたファッチのことを「マッカラムの80代のトレーナー」と呼んだ。
冗談が飛び交う時間は、ゴングとともに終わりを告げた。マッカラムは試合開始直後からヨンカーの肋骨を容赦なく叩きはじめ、ヨンカーは第1ラウンドのほぼ全体をロープを背にしながら過ごすことになった。マッカラムは落ち着き払って頭部も攻めたが、主にボディに集中して打ち続けた。コーナーのファッチも同様に冷静で、「引き続きヨンカーを後退させろ」とマッカラムに指示を出していた。
勝負の行方は、試合開始時点ですでに決していたとも言える。第5ラウンド、マッカラムの左アッパーカットがヨンカーの顎を打ち抜き、口を開いたまま頭が後方にのけ反る。マッカラムは一瞬、ヨンカーが前に崩れ落ちるのではと身構えたが、ヨンカーはかろうじて倒れず、その隙間をぬうようにして左ボディフックを突き刺した。
アッパーカットを受けた際のヨンカーの反応も視覚的に衝撃的だったが、それ以上に印象的だったのはボディブローを食らった直後の声だった。マッカラムの左拳が腹部にめり込んだ瞬間、ヨンカーははっきりと叫び声を上げ、続く苦しげなうめき声はリングサイドのマイクにもはっきり拾われた。
『モービル・レジスター』紙でリングサイドから取材していたエディ・カランは、その瞬間をこう描写している──「まるでジャック・ルビーがリー・ハーヴェイ・オズワルドの腹に銃弾を打ち込んだあの瞬間に撮られた、何百万回と目にしてきた有名な写真の中にある、口を大きく開けて恐怖に見開かれた“あの表情”そのものだった。」
「あいつには罰を与えたかった。記者会見でしゃべりすぎていたし、口ばっかりだったからな」と、マッカラムは試合後の記者会見で語った。
レフェリーのジョー・コルテスは、その一方的な攻撃に終止符を打ち、マッカラムを新たなWBCライトヘビー級暫定王者と宣言した。
「最初のボディショットを入れたとき、泣き出したんだ」と、マッカラムはファーディ・パチェコとの試合後インタビューで語りながら、ヨンカーの苦悶の叫びを真似て見せた。「そのときに思ったんだ。ああ、終わりはすぐそこだなって。ジャマイカでは『終わりはすぐ来る(end soon come)』って言うんだ。」
マッカラムのキャリアの終わりもまた、そう遠くはなかった。しかし、その暫定王座を失う前に訪れた。彼のキャリアに付きまとう皮肉な展開のひとつとして、対戦前にライバルプロモーターのダン・ドゥーバが、WBCの第1位コンテンダーであるイーガートン・マーカスの代理として法的措置を取り、その裁定によって試合後に王座移動は無効とされた。
幸いだったのは、マッカラムが試合でほとんどダメージを受けておらず、王座が無効とされる前にチャンピオンベルトを腰に巻いた姿で、試合用トランクス姿の宣材写真を撮ることができたことだった。
その後マッカラムは、次戦でジェフ・ハーディングを破り、正式なWBC世界ライトヘビー級王座を獲得する。キャリアの終盤には、ロイ・ジョーンズ・ジュニア戦、そしてジェームズ・トニーとの三度目の対戦を行い、自らの世代から新たな世代へとバトンを渡す形でリングを去った。
天才ロイ・ジョーンズは、同世代の一流選手たちと対戦できなかったことを悔やんでいたが、マッカラムとの対戦を受けた理由について、「彼が金が必要だと言ったからだ」と後に明かしている。
マッカラムは常に「対戦相手とはいえ、ボクサー同士は経済的に支え合うべきだ」という信念を持っていた。引退後、イベントの席でマーベラス・マービン・ハグラーと再会した際、記者スクープ・マリノウスキーにこう語っている。「あんたは俺に“尊敬してる”って言ったけど、俺はあんたに聞いたんだ。“なんで俺と戦わなかった? 俺は家族を養うために金が必要だった。ボクシングってのは痛みを伴うビジネスだ。俺たちはそれで飯を食ってるんだ。ハーンズも、デュランも俺とは戦わなかった。けどあんたたちはみんなお互いに試合してたじゃないか。そんなあんたが俺を尊敬してるって? 冗談じゃない。”」
そんなマッカラムにとって、トニーは彼が愛した“オールドスクール”な技術を理解し、実践できる稀有なファイターだった。ふたりの三連戦は、ボクシングを学びたい者なら必ず観るべき試合として語り継がれている。トニーは常に「マッカラムこそ、俺が対戦した中で最もスキルの高い男だった」と語り、マッカラムもまた彼に対して敬意を惜しまなかった。
若き王者たちが痛みと引き換えに受けた教訓と、新たな時代の名選手たちとの戦いを通じて、ようやく世間はマッカラムが本当に“バッドマン”であったこと、つまりバニー・グラントがかつて語ったとおりの恐るべき才能の持ち主であったことを認めるようになった。
68歳で亡くなったとき、マイク・マッカラムはジムへ向かう途中だった。彼はバニー・グラントから、エマニュエル・スチュワードから、そしてエディ・ファッチから受け継いだ知識を、次の世代に伝えようとしていた。