1980年代から1990年代にかけて最も功績を残し尊敬を集めたボクサーの一人であるマイク・マッカラムが、土曜日にラスベガスで急逝した。
3階級で世界王座を獲得し、引退後はトレーナーとしても成功を収めたマッカラムは、68歳であった。
彼の母国ジャマイカからの報道によると、マッカラムはラスベガスのジムへ向かう途中で体調不良を訴え、その後反応がなくなり、最終的に死亡が確認されたという。『ジャマイカ・オブザーバー』紙が報じている。
ジャマイカのスポーツ大臣であるオリビア・グレンジ氏が、声明にてマッカラムの死を確認した。
「ジャマイカが誇る三度の世界ボクシング王者、マイケル・マッケンジー・マッカラム氏の訃報に接し、言葉では言い表せないほど深い悲しみに包まれております」とグレンジ氏は述べた。「彼の母親、ご兄弟姉妹、そしてお子様たちに対し、心よりお悔やみ申し上げます。スポーツ省を代表し、この伝説的なジャマイカ人のご遺族、ご友人の皆様に謹んで哀悼の意を表します。」
マッカラムは1956年12月7日、ジャマイカの首都キングストンに生まれた。1976年のモントリオール夏季オリンピックではジャマイカ代表として出場し、その後もアマチュアとして4年間活動したのち、1981年1月にプロデビューを果たした。
パワー、高いリングIQ、そして鉄の顎を兼ね備えた技巧派として知られたマッカラムは、ボディブローで相手を痛めつけ、時にはKOするスタイルから「ザ・ボディ・スナッチャー(臓器泥棒)」の異名を取った。特に彼の左ボディフックは多くの相手に恐れられ、プロキャリア55戦において一度もKOされたことがなかった。
彼はジュニアミドル級、ミドル級、ライトヘビー級の3階級で世界王者となった。プロキャリアは16年間に及び、通算戦績は49勝5敗1分(うち36勝がKO勝ち)であった。2003年にはその功績が称えられ、国際ボクシング殿堂入りを果たしている。
『The Ring』誌は2011年、彼を歴代ミドル級王者の中で第8位に位置づけた。殿堂入りを果たすほどの名選手でありながら、マッカラムはしばしば当時のビッグネームたち──すなわち「シュガー」・レイ・レナード、トーマス・ハーンズ、マービン・ハグラー、ロベルト・デュランら──が、自分のような「リスクは高く見返りは少ない」相手との対戦を避けたことに、フラストレーションを抱いていたことを明かしている。
マッカラムは1984年10月、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでショーン・マニオンと15回戦を行い、判定勝ちで空位のWBA世界スーパーウェルター級王座を獲得。これにより、ジャマイカ出身として初のボクシング世界王者となった。
このWBA世界スーパーウェルター級王座は6度の防衛に成功し、いずれの試合もKOで勝利を収めた。1986年8月から1987年7月にかけては、当時154ポンド級でトップレベルにあったジュリアン・ジャクソン、ミルトン・マクローリー、ドナルド・カリーらを相手にKO勝ちを収めている。
スンブ・カランバイに敗れてWBA世界スーパーウェルター級王座を失ってから14か月後、マッカラムは1989年5月にイギリス・ロンドンへ遠征し、イングランドのヘロル・グラハムと対戦。スプリット判定で勝利を収め、WBA世界ミドル級王座を獲得した。マッカラムはこのミドル級王座を3度防衛し、その中には1991年4月に行われたカランバイとの再戦でのスプリット判定勝ちも含まれている。
1994年3月、当時37歳という高齢でマッカラムは3階級制覇を達成。ランドール・ヨンカーとの一戦で5ラウンドでTKO勝ちし、空位のWBC世界ライトヘビー級王座を手にした。
マッカラムは1997年2月、宿敵ジェームズ・トニーとの第3戦で、ユナニマス・ディシジョン(3者一致の判定)による敗北を喫し、これを最後に引退した。トニーとはそれ以前にも対戦しており、1992年8月にはマジョリティ・ディシジョン(2対1の判定)で敗れ、1991年12月の初戦ではドロー(引き分け)に終わっていた。
マッカラムの5敗のうち3敗は、トニーとロイ・ジョーンズ・ジュニアという、いずれも殿堂入りを果たしている名選手に喫したものである。トニーはたびたび「キャリアで最も手強かった相手はマッカラムだ」と語っている。
引退後のマッカラムは、ラスベガス各地のジムでトレーナーとして活躍し、その指導力に高い評価を受けていた。元世界王者エディ・ムスタファ・ムハマドとともにトレーナーとしても活動していた。
Keith Idecは『ザ・リング』のシニアライターおよびコラムニストである。
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