クリス・ユーバンク・ジュニアと
コナー・ベンは、英国ボクシング史上最も長く続く家族間の確執に、新たな章を刻む日を目前にしている。
初戦はまさに奇跡的な盛り上がりを見せた。4月26日、3年間にわたる因縁と論争がついに激突へと発展し、両者はミドル級戦で拳を交えた。その戦いぶりは、30年以上前にそれぞれの偉大な父親が築いた伝統にふさわしいものだった。
満員の観衆で埋め尽くされたロンドンのトッテナム・ホットスパー・スタジアムで、ユーバンクとベンは互いを極限まで追い込み、
12ラウンドに及ぶ壮絶な死闘の末、ユーバンクが文句なしの勝者となった。そして土曜の夜、両者は同じ会場に戻り、
DAZN PPVで配信される6試合興行のメインイベントとして、待望の再戦に挑む。
この遺恨対決は、英国ボクシングにおける長いライバル史の最新章でもある。ユーバンクとベンの父親たちが繰り広げた伝説的な物語は幾度となく語られてきたが、ここで他の代表的な例も振り返ってみよう。
トニー・ベルニュー対ネイサン・クレバリー
トニー・ベルニューは口達者で皮肉屋なリヴァプール出身の男、ネイサン・クレバリーはカーディフ出身の数学学士。性格も背景も正反対の二人は、最初から反発し合う運命にあった。
リングに向かう際に巻いたヘッドバンドから、ベルニューの実力を軽視する言動まで、ウェールズ出身のクレバリーのすべてがベルニューを苛立たせた。ベルニューは本能的に、二人がいずれ衝突する運命にあると感じ、キャリア初期からこの対立を煽り続けた。一方のクレバリーもその敵意を楽しむかのように、あらゆる場面でベルニューを挑発し、神経を逆撫であった。
2011年5月、ユルゲン・ブレーマーがネイサン・クレバリーとのWBOライトヘビー級タイトル防衛戦を、試合開始のわずか3日前にキャンセルした。クレバリーは暫定王座から正式王者へと昇格し、その知らせを聞いたベルニューは即座に挑戦を申し出た。体重を落とし、ロンドンへ向かうと、記者会見の場で挑発的な姿勢を見せるクレバリーに真っ向から食ってかかった。
ベルニューの体重に対する懸念を理由に、英国ボクシング管理委員会(BBBofC)はこれ以上の減量を禁じ、試合は決定とほぼ同時に中止となった。
それでも遺恨の種はすでに蒔かれていた。5か月後、クレバリーはWBO王座の初防衛戦としてリヴァプールに乗り込み、ベルニューと対戦した。12ラウンドに及ぶ激闘の末、僅差の判定でクレバリーが王座を守った。
両者はそれぞれの道を歩んだものの、因縁が消えることはなかった。3年後、二人はクルーザー級で再び拳を交えることとなった。ベルニューはリング外で敵意をさらにあらわにしたが、試合そのものは比較的落ち着いた展開となった。200ポンド級でより自然な動きを見せたベルニューがクレバリーを上回り、スプリット・デシジョンでの勝利に十分値する内容だった。
カール・フロッチ対ジョージ・グローブス
カール・フロッチは、
ジョージ・グローブスとの世界タイトル防衛戦が発表されたその瞬間から、実力は認めつつも格下と見られた挑戦者に対して露骨な軽蔑の態度を取った。
グローブスはその侮辱を逆手に取り、冷静かつ計算された態度で、統一WBA・IBFスーパーミドル級王者フロッチを数々の印象的なメディア出演の場で挑発し続けた。2013年11月の試合当日までに、グローブスはフロッチだけでなく、英国ボクシングファンの心までも完全に掌握していた。
ゴングが鳴ると同時にグローブスはリズムと距離感を掴み、第1ラウンド終盤、強烈なオーバーハンド・ライトを打ち込み、王者をダウンさせた。その一撃でマンチェスター・イブニング・ニュース・アリーナの空気が一瞬にして凍りついた。
激しい第6ラウンドでは、フロッチが何発もの右の強打を浴びた。そのどれを取っても、世界中のほとんどのスーパーミドル級ボクサーなら倒れていたほどの威力だった。
しかし、フロッチにとっての苦境はそこまでだった。驚異的なタフネスを発揮しながら少しずつ反撃の糸口を掴み始め、試合の流れを引き戻しつつあったその時、レフェリーのハワード・フォスターが両者の間に割って入り、疲労で動きが乱れたグローブスをストップ。物議を醸す形で試合を終了させた。
再戦の舞台がロンドンのウェンブリー・スタジアムに決まったことで、英国ボクシング界は新たな時代の幕を開けた。
再戦を前に、グローブスは少なくとも表向きには心理戦のトーンを少し抑えた。一方のフロッチも以前より冷静な姿勢で試合に臨み、時折反応を見せる場面はあったものの、全体としてはグローブスの挑発に乗らず自制心を保っていた。
ゴングが鳴ると、再戦は初戦ほどの激しさこそなかったが、緊張感のある駆け引きが続き、8万人の観衆を引き込んだ。だが第8ラウンド、グローブスがフロッチの右をもろに受けて倒れ、カウントアウト。英国ボクシング界をほぼ1年にわたり席巻したこのライバル対決は、衝撃的な幕切れを迎えた。
アンソニー・ジョシュア対ディリアン・ホワイト
2009年、
ディリアン・ホワイトと
アンソニー・ジョシュアはロンドン北部のパブの上階に設けられたリングで拳を交えた。数百人の観客の前で、ホワイトがジョシュアをダウンさせ、3ラウンド戦い抜いて勝利を収めた。
その後数年にわたり、両者の間のライバル意識と個人的な確執は次第に激化し、6年後、プロとして再び対峙する試合には2万人の観客がロンドンのO2アリーナに詰めかけた。その間に状況は大きく変わっていた。
再戦の時点で、ジョシュアはロンドン五輪で金メダルを獲得し、すでに世界的スターへの道を歩み始めていた。対照的に、ホワイトはリング外で数々のトラブルを経験し、どん底から這い上がってきた。しかし重要なのは、彼がジョシュアをまったく恐れておらず、そのことをはっきりと言葉にしていた点だった。
二人は
ウラジミール・クリチコのトレーニングキャンプで衝突し、2015年12月には英国・コモンウェルス両タイトルを懸けた激しい感情戦で対峙した。
ジョシュアはゴング直後から勢いよく飛び出し、第1ラウンドを完全に支配して早期決着を予感させた。ラウンド終了のゴングが鳴り、ダメージを負ったホワイトを救った直後、O2アリーナは大混乱に包まれた。両者はゴング後も打ち合いを続け、両陣営とセキュリティがリングに乱入する騒然とした展開となった。
肩に故障を抱えながらリングに上がったホワイトだったが、決して崩れなかった。第2ラウンド、彼は絶妙なタイミングの左フックを打ち込み、プロ入り後初めてジョシュアにダメージを与えた。さらに集中したボディ攻撃が効果を発揮し始めた。
ジョシュアはここで初めて真の試練を乗り越えた。少しずつ主導権を握り返し、第7ラウンド中盤、強烈な右アッパーカットを叩き込み、劇的な一戦に終止符を打った。その後ジョシュアは統一ヘビー級王者の座を二度獲得するまでに成長したが、ホワイトはついに頂点へ辿り着くことはなかった。