ブライアン・ノーマン・ジュニアが初めて父にボクシングをやりたいとねだったのは、彼がまだ気ままな7歳のときである。
ブライアン・ノーマン・シニアはシングルファーザーで、4人の子どもを一人で育てながら、自身のボクシングキャリアも諦めずに続けていた。長男のディアンドレはアマチュアボクサーだったが、ブライアン・ジュニアは“赤ちゃん”であり、ジュニアがこの危険な競技に本気で取り組むなら、ディアンドレのときに犯した失敗を繰り返すまいとシニアは心に決めていた。
「ボクシングをやりたいと聞いたとき、父は『本当にやりたいのか?』と言ったんだ」とブライアン・ジュニアは『ザ・リング・マガジン』に語った。「脳にダメージを負って歩いてくる人たちをたくさん見ているから、それが父の一番の心配だった。でも、父は俺を止めなかった。『やるなら、まずディフェンスを極めよう』って言ったんだ。
『だからまず足とディフェンスをしっかり身につけろ』って。それが最優先だった。そのあとで『よし、ダメージを与えに行こう』となって、そこからオフェンスの練習を始めたんだ」
それから17年後、ブライアン・ジュニアは十分すぎるほどダメージを与えてきた。
無敗のWBOウェルター級王者である彼は、前戦で2025年最も壮観なKOのひとつを生み出した。
6月19日、東京・大田区総合体育館での第5ラウンド、左フックで日本の佐々木尽を失神させたのである。
ノーマン父子は、この豪華なカードに出場する4組の父子トレーナーチームのひとつである。対戦相手であるビル&デビン・ヘイニー父子もその一組だが、父がプロボクサーとして戦った経験を持つのはノーマン親子だけである。
ノーマン親子は、自分たちがここまで上り詰められたのは、大きくは2003年から2011年にかけて“Bサイド”として厳しい現実を経験したブライアン・シニアの歩みがあったからだと考えている。
ジョージア州ディケーター出身のブライアン・シニアは、21歳までに4人の子どもを持ち、26歳で妻トリシア・ジャクソンと別れた後は、4人の唯一の保護者となった。スーパーミドル級/ライトヘビー級としてAT&Tでフルタイム勤務をしながら家庭の責任も大きく、非常に忙しい生活の中で練習時間を捻出し、短期通知の試合を受け、時には無敗の有望株の地元興行に乗り込むこともあった。
最大のチャンスは2007年12月、のちにライトヘビー級王者となるジャン・パスカルとモントリオールのベル・センターで10回戦を戦ったときである。カナダ・ケベック出身のパスカルは当時19勝無敗で、地域タイトル3本を懸けていた。
その後めまい症と診断された症状により、2011年1月、無敗だったドミニク・ウェイドに6回TKOで敗れたのを最後に、ブライアン・シニアは引退した。
それから年月が経ち、9か月前、グレッグ・ハケットとの因縁試合のためにリングへ戻った。46歳のノーマン(18勝11敗、5KO)は、3勝23敗1分の相手に6回の判定勝利を収めながら、「いま戦うべきなのは自分ではなく息子だ」と痛感させられたのである。
キャリアを断たれた父
「全力を注いでも望んだ結果が得られなかったのは本当に落ち込んだ」とブライアン・シニアは言う。「でも明らかに、これは俺にとって『そういう運命じゃなかった』ということなんだ。若い頃にめまい症になって、もう肉体的に続けられなくなった。あの戦い方のままじゃリングに立てなかったんだ。
『俺は誰かのサンドバッグじゃない』。だから殴られに行くためにリングに上がる気なんてなかった。金のためでもない。金なら自分で稼げる。だからすべてが巡り巡って、そこから学んだことが今のブライアン・ノーマン・ジュニアを作り、彼を強くしたんだ」
ボクシング引退後、ブライアン・シニアは自動車修理店とレッカー・トラック事業に集中した。兄のディアンドレは天性の才能があったが、10代後半でプロにならず競技を離れたため、シニアはブライアン・ジュニアの指導を続けた。
ブライアン・ジュニアは日曜日で25歳になるが、150試合以上のアマチュア経験を積んでおり、父より135試合同以上多い。ジョージア州コニャーズ在住で、17歳でプロデビューしたが、ノーマン親子はシニアの苦労をふまえ、ビジネスパートナー選びには慎重だった。
彼らが心から信頼を寄せられると感じたのは、ファイターズ・ファースト・マネジメント社の社長ジョリーン・ミゾーンとCEOエイドリアン・クラークである。この会社はジョージア州とアラバマ州で複数の自動車ディーラーを経営するデビッド・バシャが設立した。
ミゾーンとクラークは、ノーマンがトップランク社(ボブ・アラム率いるプロモーション)と契約を結ぶ後押しをした。2022年末のことである。そしてノーマンは、その後ヘイニーとの対戦を受諾したのち、この夏にトップランクとの契約延長にサインした。英国では午後8時(£24.99)、米国では東部時間午後3時($59.99)開始予定のPPV興行として行われる。
「父はただの“馬鹿な親父”じゃないんだ、わかるだろ?」とブライアン・ジュニアは言う。「父は努力家だし、頭を使って働くタイプでもある。父はそうやってきた。一方、俺の方は外の声に惑わされないようにしてる。『父親を離れろよ。もっといいコーチがいる』『あっちへ行けばここへ行ける』『このトレーナーならもっと上に行ける』って周りは言う。でも俺は『いや、ここまで連れてきてくれたのは父だ。これからも父が連れて行ってくれる』と思ってる。父親っていうのは守る存在だ。俺たちが知らなくても、父たちは経験してきている。誰が近づいてきて何をしようとしているのかもわかるんだ。
「だから父は、そういうこと――つまり、割って入ってきて俺たちを引き離そうとする連中がいるってことを、前もって全部警告してくれていたんだ。そのせいで、連中は父のことを必ずしも好いているわけじゃない。俺の頭が切れるっていう事実も気に入らないし、俺が言うべきことを飲み込まずにはっきり言うところも気に入らない。連中は、父が俺にいろいろ教えすぎるから、とにかく俺を父から引き離したいんだ。『あいつから離れろ。こっちへ来いよ。お前からカネを巻き上げてやる。この悪い契約を飲ませてやる』みたいなことを考えてる。でも父がそれを食い止めているから、当然のように連中は父を俺から引き離そうとしてくるんだ。」
共にスターへの道を進む
ブライアン・ジュニアはアラスカに住む母とも関係を保っており、彼女は可能なときにはアメリカ国内で息子の試合に足を運ぶ。父と母の関係は「クール」であるというが、ジュニアは“アルファ”な性格の父が自分を鍛え上げ、今の自分を作ってくれたことに感謝している。
家庭でもジムでも、二人の関係は相互尊重に基づいている。シニアは、ボクシングに完全にコミットするなら全てを集中させなければならないと常に息子に言い続けた。自分自身は若くしてディアンドレを授かったため、それができなかったのである。
「父は全部自分でやったんだ」とブライアン・ジュニアは誇らしげに語った。「想像してみてくれ――父はすべてをやり遂げた。シングルファーザーとして4人の子どもを育てて、全部乗り越えた。今でも俺たちは『どこまで来たんだろうな』って話してるんだ」
手の怪我による手術や、ヘスス・アントニオ・ペレス・カンポス、クイントン・ランドル、ジャネルソン・ボカチカ戦での不本意なパフォーマンスによって、ノーマンはかつての勢いを一時的に失った。また、無敗の5階級制覇王者テレンス・クロフォードとの激しいスパーリングはボクシング界で半ば伝説となっている。
ヘイニーに勝てば、ノーマンはスターへと一気に飛躍するだろう。ヘイニーはウェルター級フル参戦としてはデビュー戦だが、ノーマンが7年のプロ生活で対戦する中で最も実績があり技巧に優れた相手である。
過酷なトレーニングキャンプを終えた今、ブライアン・シニアは息子がエリート級相手に新たな側面を見せてくれることを期待している。勝っても負けても、父子として、トレーナーとファイターとして、共に進化してきたことに彼は満足している。
「俺は4人の子どもを自分一人で育てた。でもジュニアは“赤ちゃん”だった」とブライアン・シニアは語った。「そのあと13年経って娘のブリリンが生まれたけど、ブライアン・ジュニアは特別だった。家族みんなが赤ちゃんにどう接するかわかっているだろう? 俺はずっとジュニアをそばに置いて育てた。長男のときの失敗、最初の3人のときの失敗から学んで、ジュニアでやり直そうとした。それがうまくいったんだ」
Keith Idecは『ザ・リング』のシニアライターおよびコラムニストである。X(旧Twitter)@idecboxingで連絡可能。