このエッセイの構想を練り始めたとき、私はトップランクのマッチメーカー、ブルース・トランプラーに「試合中にファイターが棄権するのはいつ許されるのか」と尋ねた。彼は簡潔な逆質問で返してきた――「誰の意見で?」
ロープの外、楽な側に座っている私たちは、「偉大な者は決して諦めない」といった決まり文句に慣れてしまっている。ボクサーが私たち一般人とは異なる基準で評価されていることも、そして総合格闘技のように“タップアウト”が恥とされない世界とは違い、ボクシングでは最も過酷な基準が課されていることも、私たちは理解している。
今年初めにジョージ・フォアマンが亡くなったことで、40年以上前に行われた歴史的な激闘──ロン・ライルとの死闘が思い起こされた。両者が何度もダウンを喫し、立っているのがやっとという状態で凄まじい打ち合いを繰り広げ、最終的にはライルが意識を失ってリングに沈んだあの試合だ。
テディ・アトラスは、人生の多くをボクシング界の最前線で過ごしてきた人物だ。彼はボクシングの精神をこう語っている──「ファイティングとは、困難を乗り越えようとする決意そのものだ。ファイターであることの定義は、“諦めない心”にある。ファイターであると決めた者は、勝つための道を見つけ出そうとし続けなければならない。どんな状況でも戦い続けるのが本物のファイター。本物は、それを持っている。」
「ファイターが限界に達することがあるのは理解してる──マニラ後のアリの言葉がそれを最もよく表してる。彼は『ジョー・フレージャーとの戦いは、死に最も近い経験だった』って言った。でもアリは戦い続けた。どれだけ肉体が苦しんでいても、その“闘うという掟”に従うことが、自分の人生に意味を与えていたからだ。だから俺にとって、ファイターが棄権するというのは“最大の罪”なんだ。厳しい言い方かもしれない。でもそれが俺の考えであり、信念だ。ボクシングは“痛みの商売”なんだ。そこにはルールがある。そのルールが嫌なら、この競技をやるべきじゃない。この過酷なスポーツに足を踏み入れるとき、お前は自分が何に挑もうとしているのか、分かっていたはずだ。」
だが、限界というものはある。
ボイド・メルソンの物語:二つの闘いの物語
ボイド・メルソンは、アメリカ陸軍士官学校(ウェストポイント)の卒業生であり、卒業後はプロボクサーとして15勝2敗(4KO)の戦績を残した。彼のリング上での2つの体験は、ボクサーの掟を浮き彫りにしている。
2014年、メルソンはニューヨークのローズランド・ボールルームでドナルド・ワードと対戦した。この試合、メルソンは圧倒的な有利と見られていた。しかし第3ラウンド、彼は腕神経叢(脊椎から首、右腕にかけて伸びる神経の束)を負傷する。
「耐えがたい痛みだった」とメルソンは振り返る。「腕が動かせなくなり、グローブの中の指の感覚もなかった。脳卒中を起こしたのかと思った。最初に頭に浮かんだのは、『体に何が起きてるのか分からない。怖い。棄権しなきゃ』ということだった。膝をつこうとしたそのとき、ウェストポイントでの訓練のことが頭をよぎった。戦場でもリングでも、生き残るには“時間を遅くする”必要がある。現実には時間は流れているが、自分の中ではあえてゆっくりと受け止めるんだ。そして、とにかく耐え抜き、何としてでも生き残る。それがあの夜、私がしたことだった。右腕はほとんど動かせなかった。あのあと、右のパンチを一発だけしっかり打てたが、それだけでショック状態になりかけた。」
メルソンはまるで戦場で傷を負った兵士のようだった。しかし、彼は生き延び、そして判定勝ちを収めた。
「自分のすべての試合の中で、あの試合が最も意味のあるものだった」とメルソンは語る。「自分がどんな逆境にも打ち勝てるという信念が、あの試合で確かになった。途中で棄権しようという思いが何度も頭に浮かんだ。でも、自分のケガを気にするのをやめて、腕が動かず、自分に何が起きているのかも分からない状況の中で、“今この瞬間”に集中し、恐怖を抑え込み、勝つためにやるべきことをやり通すことができたんだ。」
しかし2年後、メルソンはフォックスウッズでのコートニー・ペニントン戦で、まったく異なる経験をする。
「第1ラウンドで、パンチを受けて左目の網膜に穴が空いた」と彼は振り返る。「その瞬間から、まるで目にワセリンの塊がべったり付いたような感覚で、パンチが見えなくなった。完全に見えなかった。ボコボコにやられた。すべてのラウンドを落とした。第7ラウンドではボディショットでダウンした。立ち上がったけど、それでもパンチは見えない。そして今度はボディを守らないといけないから、目も守れなくなる。『失明するためにここに来たんじゃない。そこまでの代償は払えない』って思った。だから、自分から試合を止めたんだ。」
それは正しい判断だったのか?
「“正しさ”は相対的なものだ」とメルソンは答える。「結局のところ、『お前は誰なんだ?何のために戦っている?プライドのためか?金のためか?自分の本当の姿を知るためか?そのためにどこまでのリスクを許容できる?』っていう問いになる。ドナルド・ワード戦のときは、『まだ片腕は動く』と思って戦い続けた。でも、勇気と無謀の間には線がある。棄権と、“これは自分にとって正しくない”と判断することの間には違いがある。そしてその線を本当に知っているのは、本人だけなんだ。」
理論上は、レフェリー、リングドクター、そしてセコンドがファイターを守る役割を担い、棄権の判断をファイター本人の手から引き取ることになっている。実際に彼らがその役割を果たすこともあれば、果たさないこともある。
なかには、試合を止めることに極端に消極的なレフェリーもいる。
ほとんどの管轄区域において、リングドクターには試合を中止する権限はない。中止をレフェリーに「勧告」することしかできず、その勧告も、出血による危険なカットや神経症状などの明確な医学的根拠に基づかなければならない。試合展開の内容だけでは勧告できないのだ。
そうなると、頼みの綱はセコンドになる。時にセコンドの判断はファイター本人よりも適切なこともあるが、そうでない場合もある。ここでもテディ・アトラスの言葉が重みを持つ。
「ファイターがもう限界で、これ以上何も出せないという状態になることがある」とアトラスは指摘する。「もし私が一人前のトレーナーであるなら、本物のファイターである彼が“棄権したい”と考えるような状況になるまで追い込まれることなど、決してあってはならない。中には、止めるべき試合を止めないトレーナーもいる。明らかに試合を止めるべきだと分かっているのに、選手はすでに限界を超え、棄権するか、ひどいダメージを受けるかの状態に追い込まれているのに、それでも止めない。そんなのは無知か、愚かさか、あるいはただのエゴだ。理由が何であれ、そんな人間はセコンドにいてはいけない。」
「それに、トレーナーはファイターに『まだ戦えるか?』なんて聞いてはいけない」とアトラスは続ける。「なぜなら、どんなファイターでも『戦える』と答えるからだ。だからこそ、その決断はトレーナーが下すべきなんだ。」
だが、時として保護の仕組みが機能しないこともある。本来止めるべきタイミングで試合が止まらないこともあれば、本当はまだ続けるべきかもしれない場面で、ファイター自身が棄権を望むこともある。何が正しいのかを示す絶対的な基準は存在せず、そこにはさまざまな要素が複雑に絡んでくる。
“踏み台”としてリングに上がるファイターもいる。最初から負けることが前提で、ファイター自身を含め、誰もがそれを分かっている。唯一の問題は、“どれほどのダメージを受けてから圧倒的に優れた相手にノックアウトされるか”ということだ。そんな中で、そのファイターが心の中で「プロモーターなんかクソくらえだ。ファンもクソだ。4ラウンドずっとボコボコにされてるし、勝てる見込みなんてない」と思ったとしたら――そもそもプロモーターやファンは、彼に何を期待していたというのだろうか?
試合の“賭け金”の大きさは重要だ。世界タイトルマッチのように、どれほど望みが薄くとも勝つチャンスが存在するなら、ファイターはより多くの苦難に耐えることが期待される。だが、それがたった4ラウンドの無名の小規模興行であれば、話は違う。
そしてファイターが、自身の身体がどれだけ痛めつけられているかを考えることは、責められるべきではない。我々が語っているのは、テニスのように一方的なストレート負けを喫する試合ではない。プロボクサーに打たれるということは、激しい痛みを伴うのだ。だからファイターが「今日は自分の日じゃない。勝てない。これ以上打たれる意味があるか?」と自問するのも、十分に理解できる。
だが、ボクシングの純粋主義者たちは、そんなファイターにこう言うかもしれない――「ファイターの掟を思い出せ。誇りを見せろ」と。
だが、パンチの痛みは一瞬で終わるものではない。ひどい打たれ方をした場合、その身体的影響は一生ファイターに付きまとう。試合ごとに蓄積されるダメージは、やがて深刻な後遺症をもたらす。その違いは“どれだけ”蓄積されるかという程度の問題にすぎない。
もしファイターが一方的に打たれ、持てる力をすべて出し切り、反撃も防御もできない状態にあり、さらに「このままでは重大な身体的損傷を負う」と強く感じていて、勝利の望みが完全に絶たれているのであれば、自身のその後の人生を守るために棄権を選ぶのは当然の権利である。
もちろん、ファイター自身が常に冷静で客観的とは限らない。だが時には、ファイターこそが自分自身の限界を最も正確に理解していることもある。
また、“痛み”と“ケガ”を区別する必要もある。たとえば、腱板断裂(ローテーターカフの損傷)などのケガは、根性や精神論で乗り越えられるものではない。軽度の状態であれば深刻にならずに済んだはずの負傷も、無理をして戦い続けることで、将来的に重大な障害へと発展しかねない。
将来的に回復不能なダメージをもたらすようなケガを負ったファイターに対し、「戦い続けろ」と期待するのは、あまりにも酷なことだ。
ファイターが悪い目や肩の状態、あるいは繰り返す頭痛を抱えたままリングに上がると、人々はすぐに「自己責任だ」と言いたがる。その指摘は、試合前だけでなく、試合中に起きることに対しても当てはまる。
とはいえ――ここで強調しておくべきなのは、「どのように棄権するか」は非常に重要だということだ。
試合を棄権する方法には様々な形がある。“勝とうとしない”というのも、その一種だ。試合開始からただ耐え続けるだけで、一度も勝負に出ようとせず、最後まで“戦い”を作り出そうとしない選手は、全力を尽くし、深刻なダメージを負い、勝ち目が完全に消えた末に「もう十分だ」と声に出すファイターとは、まったく別の評価になる。
誠実さは大事だ。
試合が進むにつれて、「このファイターは逃げ道を探しているな」と明らかに見えてくる場面がある。そうした“演技”をする選手には、私は問題を感じる。
ダウンしておきながら、カウント10を少し過ぎた時点でようやく立ち上がり、「カウントが速すぎた」と文句を言うのも、別の形の棄権にすぎない。
棄権には、当然ながら代償が伴う。それは周囲がその選手をどう見るかという評価だけでなく、選手自身が自分をどう感じるかという内面的な問題でもある。しかし、最終的な決断はファイター自身に委ねられている。
もしファイターが深刻なダメージを受けており、もはや何も出し切るものがなく、リスクがボクシングという競技の許容範囲を超えてしまっているなら――そのファイターには「棄権する権利」がある。
※本稿は全2回の連載の第1部です。第2部は明日、このウェブサイト上で掲載予定。
トーマス・ハウザーの連絡先メールアドレスは thomashauserwriter@gmail.com。彼の最新著書『The Most Honest Sport: Two More Years Inside Boxing』は
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