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毒、パンチ、モブツ:チケヴァ物語
Ring Magazine
特集インタビュー
Declan Taylor
Declan Taylor
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毒、パンチ、モブツ:チケヴァ物語
ロンドン(イングランド)──ジェイミーTKVがBBC Twoの生中継でイギリス・ヘビー級王座に挑むまでの道のりをさかのぼると、その原点は1980年代のコンゴ民主共和国で起きた「毒入りランチの一皿」に行き着く。

フルネームをジェイミー・チケヴァというTKVは、現在イギリス国内ヘビー級シーンで最も注目される存在のひとりだ。フレイザー・クラーク戦が地上波で放送されれば、その知名度はさらに跳ね上がる。BBCがボクシング中継に戻ってくるのは、実に20年以上ぶりのことだ。

だが、チケヴァの人生と現在地に至るまでの歩みは、映画のスクリーンにふさわしいほどの壮絶な家族史に彩られている。そこには殺害、復讐、そして信じがたい形での救済が織り込まれているのだ。

物語の幕開けは、今年でちょうど半世紀前──TKV一族を襲った最初の「毒」だった。1975年までにTKVの祖父アンドレ=ブルーノは、コンゴ軍で勲章を重ねた名将となっていた。国がベルギーから独立して15年、そしてジョゼフ=デジレ・モブツことモブツ・セセ・セコが無血クーデターで権力を握って10年が過ぎた頃だった。




アンドレ=ブルーノ・チケヴァはモブツの友人だった。だが偏執的な最高司令官の目には、その存在があまりにも大きく映り始めていた。
「2人はめっちゃ仲良かったんだよ」ジェイミーは『ザ・リング』に語る。

「でもなぜかモブツは“俺の祖父が自分を殺そうとしている”と思い込んだんだ。何か精神的に不安定だったのかもしれないけど、彼は自分の周りの人間をどんどん殺し始めた。そしてその中に俺の祖父もいたんだ。」

当時の定説はこうだ。モブツは自らの地位、そして権力を脅かす可能性のある者を徹底的に排除することに執念を燃やしていた──アンドレ=ブルーノはその犠牲となり、1975年に毒殺された。少年だった息子マカシは、その真実を知っていた。

父と同じようにマカシもレスリングに夢中で、「ビッグ・パパT」と呼ばれ、コンゴの国技で勝利を収めていた。しかし心の奥底は復讐一色。まるでカンフー映画の筋書きのように、マカシ・チケヴァは20代で軍に入り、モブツに近づいて復讐を果たそうとした。

「父は軍に入れる年になった瞬間に志願したんだ」TKVは続ける。
「階級はみるみる上がっていった。どんどん昇進していったんだ。モブツは当時、父が誰かなんて知らなかった。

でもやがて彼は真実を知る。父が俺の祖父の息子だってことを。そしてモブツは“同じやり方で殺さなきゃならない”と決めたんだ。」


そこで話は80年代後半の「一皿の料理」に戻る。ジェイミーTKVには6人の兄弟姉妹がいるが、もしあの日モブツの企みが成功していたら、誰ひとりとして生まれていなかった。幸運なことに、チケヴァ一族は深いつながりを持っていた。

「最初にモブツがやったのは毒殺だった」とTKVは語る。
「でも面白いことに、その料理を作ってたシェフは俺の祖父の親友だったんだ。

シェフは父に『これから違う皿を出す。普通に振る舞え。お前が気づいてるってわかったら、俺たち二人とも終わりだ』って耳打ちしたんだ。父はその皿を受け取って、平然と食べきった。生き延びた。モブツは“おかしいな”と思ったらしい。」

だが、それで終わりではなかった。次の暗殺計画は訓練用のクライミングロープに仕掛けられた。

「父は『そのロープは登るな。お前用に緩められてる』って警告されたんだ」TKVは言う。
「当時、父は軍でインストラクターをしていたから、絶対にそのロープを登るとわかってたんだよ。

父はそれも回避した。でもそれで逆に、命を狙われてる状況がどれほど深刻かがはっきりした。状況は悪化するばかりだった。だから父はついに国外脱出を決めたんだ。その頃にはもう長兄が生まれていて、家族のために最善の選択をしたんだ。」


「父はまず先にイギリスへ行って、様子を見たんだ。そうしたらすごく歓迎されて、それで母もすぐに後を追った」

軍隊の日々を終えた“ビッグ・パパT”は、新天地ロンドン北部トッテナムでレスリングに本格復帰することを決めた。1991年、家族と共にその地に腰を据えると、イングランドでも最も困窮した地域のひとつに放り込まれた元コンゴの特殊部隊員は、すぐに地域社会へ大きな影響を与える存在となった。

「父が知ってるのはレスリングだけだから、レスリングクラブを始めるのは自然な流れだった」とTKVは語る。
「当時はプロレスにも挑戦していて、WWE──当時はWWFだけど──から契約の話もあったんだ。

でも常に俺たちや地域の人たちを鍛え続けてくれた。そして今もまだ続けている。」

ビッグ・パパTは、戦わなければならない街トッテナムにおいて、地域の柱のような存在となった。彼がそこに移り住む数年前、地区の中心にあるブロードウォーター・ファーム団地で悪名高い暴動が起きていた。

そして2011年には、丸腰だったトッテナム出身のマーク・ダガンが警察に射殺された事件をきっかけに首都全域へ暴動が広がったが、その発端はチケヴァのレスリングクラブのすぐ近くから始まった。若きジェイミーや兄弟たちも常にストリートと隣り合わせの環境で育ったが、彼らを形作ったのはレスリングというスポーツだった。


「トッテナムは厳しい場所だよ」TKVは言う。
「でも俺を作ったのは、まさにあの街なんだ。

育ちに文句を言うつもりはない。父を厳格だとは思わないけど、俺たちが規律を守るようにはしっかり指導してくれた。軍隊とレスリングのバックグラウンドを持っていたから、スポーツをやらせるために必要な意味での厳しさがあったんだ。

多くの友達は今、刑務所にいるか、もう亡くなってる。道を踏み外してしまったんだ。俺も彼らと一緒に時間を過ごしたことはあるけど、同じことはしなかった。父がいたからだ。

何か間違ったことをしそうになるたびに、“もう帰るわ”って言って家に戻った。父が植えつけた恐怖と規律……あれはストリートのどんなものより怖かった。」

父と同じように若きジェイミーもレスリングで頭角を現したが、安定した生活を求めて18歳でボクシングを始めた。アマチュアで72戦を経験したのち、2022年にプロへ転向。6戦目で11勝1敗のブラジル人イゴール・アディエル・マセドにカットによるストップ負けを喫する悲劇もあったが、そこから3連勝を重ね、この4月には初めてイギリス王座に挑戦するチャンスをつかんだ。

あの夜のデビッド・アデレイ戦、最初の5ラウンドは消耗戦だった。だが論争が起きたのは6ラウンドに入ってすぐのことだ。レフェリーのロン・カーニーがクリンチの中でTKVの手をさばき、「ブレイク!」と叫んだ瞬間、アデレイはなおも左フックを放ち、TKVを倒したのだ。

TKVは立ち上がったものの、再びダウンを喫し、最終的にカーニーが試合を止めた。ボードは即時再戦を命じたが、アデレイがフィリップ・フルゴビッチ戦を優先して拒否したため、TKVには空位となった王座を懸けてクラークとの対戦が組まれた。両者は10月25日、ダービーのヴァイヤント・ライブ・アリーナでロンズデールベルトを争う。

「今は8勝2敗だけど、戦績を見れば、俺が楽な道を歩んでこなかったことはわかるはずだ」とTKVは言う。
「もちろん勝利は欲しい。でもその敗北があったからこそ、今日イギリス王座を争うファイターとしての俺がいる。後悔も未練もない。

父と祖父、そして一族全体がここにたどり着くまでに経験したことを考えてみろよ。俺はそこから力をもらってる。すべてを経てきた今、ここにいるのは運命なんだ、そう感じてるんだ。」


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