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パトリック・コナー:「135回目の誕生日を迎えたジャック・デンプシーに敬意を。君が築いた基準を、誰もが今なお追い続けている。」
コラム
Patrick Connor
Patrick Connor
RingMagazine.com
パトリック・コナー:「135回目の誕生日を迎えたジャック・デンプシーに敬意を。君が築いた基準を、誰もが今なお追い続けている。」
ジャック・デンプシーがこの世に生を受けてから、きっかり135年。その衝撃はいまだに波紋を広げ続けている。ウィリアム・ハリソン・デンプシーとして生まれたデンプシーは、ヘビー級王者としてボクシングのルール改正を促す存在となり、同時代の多くのスポーツスターの中でも際立った存在感を放った。彼が集めた観衆の規模は、それまでのイベントの“ゲート収入”という概念を根底から覆した。そして、彼の名を冠した獰猛な魚まで誕生したほどだ。


デンプシーは人生の中でいくつもの名やニックネームで知られていた。最初は「ハリー」、次に「キッド・ブラックィー」。その後、19世紀のミドル級王者にちなんで「新ジャック・デンプシー」。そして忘れがたい呼び名が「マナッサの猛獣」。さらに時を経て「デンプシー司令官」、最後にはただ「チャンプ」と呼ばれるようになった。


しかし、「マナッサの猛獣」ほど彼にふさわしいリングネームはほとんど存在しなかった。デンプシーはコロラド州マナッサ出身の不屈のファイターであり、ホーボーの世界から這い上がり、ヘビー級王座をもぎ取り、そしてアメリカ大衆文化の中心へと突き進んだ。その全てを“荒々しくなぎ倒す”ことで実現した。まさに完璧な呼び名だった。




リングネームの面白いところは、滑稽でも凶悪でも、描写的でも全く意味不明でも許される点にある。そこには多層的な意味を込める余地がある。しかし、それは自分で名乗るものではない。与えられるものなのだ。


デンプシーのニックネームは、数々の名フレーズを生み出し、100年後の現在でも特定の時代の風変わりな人物像を「ランヨン風」と呼ばせるほどの伝説的作家、デイモン・ラニアンが名付けたと言われている。ラニアンがデンプシーに選んだ呼び名は率直で的を射ており、そのまま他の記者たちも追随し、1919年のジェス・ウィラード戦の前には「マナッサの猛獣」が定着していた。


今の時代、何百万ドルもの報酬が当たり前となり、誰もが金を稼ぎ、チケットを売りさばき、自分こそが革命的だと主張する。しかし実のところ、彼らが歩むその道は、かつてデンプシーが最初に切り開いたものなのだ。




デンプシーがヘビー級王座の防衛戦でライトヘビー級王者ジョルジュ・カルパンティエをノックアウトしたことが、ボクシング史上初の“100万ドルゲート”だったという事実だけが重要なのではない。その記録は確かに印象的で記憶に残るものであり、当時9万人が一堂に会するなどほとんどなかった。それでもなお、世界中の何百万もの人々が、この一戦の報せを今か今かと待ちわびていた。


多くの人々が、ラジオで初めて広範囲に中継されたこの試合を聴くことができた。また、アメリカ各地の都市では、数千人もの群衆が新聞社の前に集まり、黒板に書かれる速報や、拡声器で読み上げられる結果に耳を傾けた。こうした群衆の中には、即席の賭けが行われる場面もあった。パリでは、カルパンティエの祖国の人々に敗戦が知らされたのは、コンコルド広場に集まった数十万人の頭上を、白い光を放ち、白煙をまきながら飛行した複数の軍用機による合図だった。


そしてデンプシーは、常に自分自身を超え続けた。


1921年に特設スタジアムでカルパンティエを打ち砕いた王者は、1923年にはモンタナ州の町そのものを崩壊寸前に追い込む。プロモーターが過剰に見積もり、両選手に支払う金を工面できなかったのだ。シェルビーというその町は、今でも完全には立ち直っていない。




デンプシーはシェルビーを後にし、アルゼンチンのヘビー級ボクサー、ルイス・アンヘル・フィルポを2ラウンドでストップ。ノックダウンの応酬となった試合で、彼を一躍ヒーローに押し上げた。激しい攻防が展開されたものの、実際にはデンプシーの圧倒的な存在感ゆえに、誰もが記憶している以上に一方的な内容だった。 フィルポにとって、勝つ必要も、判定まで持ちこたえる必要もなかった。ただ、戦う意思を持ってリングに上がればよかった。そして彼はそれをやってのけ、その後の人生を、デンプシーとのわずか4分間で築いた名声とともに歩んでいくことになる。


3年のブランクを経ても、デンプシーの人気はむしろ高まり、彼がジーン・タニーに王座を明け渡すその試合には、嵐の中12万人以上の観衆が集まった。ゲート収入は驚異の180万ドルを記録し、1927年の再戦ではそれを上回る280万ドルを叩き出した。


この敗北をきっかけにデンプシーは引退を決意したが、もし1929年の株式市場の暴落で巨額の財産を失っていなければ、40代半ばまで何十試合ものエキシビションを続けることもなかったかもしれない。 しかし、競技者としてボクシングから身を引いた後も、デンプシーはほぼ70歳になるまで競技の現場にとどまり、最終的に引退するまでに400試合以上のプロの試合でレフェリーを務めた。


実のところ、デンプシーが絶頂期にプロとして戦った試合はわずか8戦に過ぎない。だからこそ、リングの外での彼の影響力は決して過小評価すべきではない。


第一次世界大戦中に軍への入隊を果たせなかったことで、デンプシーには「スラッカー(怠け者)」や徴兵逃れというレッテルがつきまとい、従軍経験のある対戦相手たちと比べて否定的に語られることも多かった。そのため第二次世界大戦が勃発し、アメリカが参戦すると、デンプシーはまず海軍への入隊を志願し、最終的には沿岸警備隊に受け入れられた。


それは象徴的な行動ではあったが、現実的な影響も小さくなかった。偉大なるデンプシーが戦争協力に加わったことで士気は高まり、元王者の目には過去の汚名が晴らされた。そしてさらに興味深いのは、デンプシーが徒手格闘の教官として任務にあたり、有名な教本『ハウ・トゥ・ファイト・タフ』の中で数多くの戦闘技術を指導し、その内容は何十年にもわたり用いられたという点である。この教本の中で、デンプシーとレスリング界の名選手バーナード・コズネックは、現代の総合格闘家たちにも通用する本格的なサブミッション技術や、近接距離での有効な打撃を実演していた。


しかし、何よりもデンプシーという存在を形作っていたのは、人々とのつながりだった。いくつかの映画や舞台にも出演したことはあったが、それらが彼の中に根付くことはなかった。それ以前の多くのヘビー級王者たちが、タイトルを獲得した後は概ね引退し、ヴォードヴィル巡業で稼ぐという道を選んだのに対し、デンプシーは世界を巡り、人々と握手を交わし続けた。第二次世界大戦後には、自身のレストランを「ジャック・デンプシーズ・ブロードウェイ・レストラン」として再出発させ、1974年まで営業を続けた。


デンプシーのレストランで過ごす一夜は、まるで別時代のボクシング夢譚のようだった。偉大なデンプシー本人が入口で客を迎え、セレブたちは食事や酒を楽しみ、ニューヨークのボクシング関係者たちはすぐそばで取引や情報交換に花を咲かせていた。元世界王者たちが誕生日パーティーを開く場にもなり、そこが“特別な場所”だったのは、何よりもデンプシーがそこにいたからだった。


今となっては、ジャック・デンプシーという存在を“知っている”世代からは何世代も隔たっている。彼がこの世を去ってすでに40年以上が過ぎ、かつて一度でも“マナッサのヘビー級王者”の大きな手を握ったことのある人々も、いずれ誰もいなくなるだろう。それでも、デンプシーという男が残した影は、135年という歳月を経てもなお色褪せることがない。


天国での誕生日おめでとう、チャンプ。

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