1976年モントリオール五輪で金メダルを獲得し、一躍スターとなったシュガー・レイ・レナードが歓喜に沸いていた頃、ロベルト・デュランはパナマの自宅で、WBAライト級王座のリミットを大きく上回る契約体重でのノンタイトル戦に向けて準備を進めていた。デュランは世界王者として4年目に入り、当時すでに競技界でもっとも苛烈なファイターの一人として広く認識されていた。
だからこそ、1980年6月の初対戦でデュランがレナードを破ったことは、体系的な衝撃として受け止められたわけではなかった。レナードが比較的経験不足で、デュランが途方もなく危険な存在であることは誰もが分かっていた。試合はモントリオールの大観衆を前に大成功となり、関係者全員にとって再戦は当然の流れだった。
レナードはあえて早期の再戦を望み、その闘争心を示した。実際、初戦ではデュランが死力を振り絞って勝利をもぎ取ったものの、偉業であったことに変わりはないが、内容はきわめて僅差だった。この部分はたいてい忘れ去られがちだ。デュランはパナマへ戻ると真の国民的英雄として迎えられ、そのまま祝福を受けていたが、レナードは即座に次の準備へと動き出した。レナードが迷うことなくデュランとの再戦に踏み切ったことで、アマチュア時代から彼を支えてきたトレーナー、デイブ・ジェイコブスを失う結果にもつながった。ジェイコブスはレナードに数試合の調整戦を望んでいた。
72勝1敗という戦績が示す通り、デュランはすでにボクシングの最上位レベルを経験していた。彼を“アニマル”だとか“ビースト”だとか、暴力しか理解しない無思考の戦士のように誇張して語る向きもあるが、実際のパナマ人は、リング上ではむしろ狂気じみた科学者に近い存在だった。 デュランは自分のことを“ストリートファイター”と呼ばれるのを嫌っていた。それは自分が粗野で、ただ攻撃性に支配されているかのように受け取られることを知っていたからだ。型通りの荒っぽいファイターに過ぎないなら、初戦でレナードを凌駕できるはずがないと彼は分かっていた。
それゆえに、キャンプ入り時に30ポンドオーバーという状態だったことこそ、デュランの最初の大きな失策だった。身体に無理を強いながら135ポンドを維持し続けたため、何年も減量との戦いが続いたが、それでも彼はライト級のリミットを確実に作り、6年間の王座防衛で12戦12勝(11KO)という成績を残していた。そして計量前後には、いくつかの悪い習慣も身につけてしまったようだ。
デュランが実質的にスーパーライト級を飛び越え、初戦でレナードとウェルター級で対戦したことで、彼の減量苦はいったん解消され、ヘンリー・アームストロングやバーニー・ロスの姿を重ねた「オールドスクール」の識者たちをくすぐる結果にもなった。しかし、レナードとの初戦前後のデュランの振る舞いは、彼が崩れ始めている最初の兆候だったのかもしれない。
両者とも互いを憎んでいると公言していたが、レナードの毒舌の多くは外向けのパフォーマンスだった。たとえば、デュランとその妻が、自分と妻に中指を立ててきたとき、レナードは本気で困惑したと後に語っている。振り返れば、試合後に本来なら互いのわだかまりを捨てて抱き合う場面で、デュランがレナードを突き放したことも“罪”だった。レナードは後に、その行為が自分の胸に深く突き刺さったと語っている。
デュランは結局、キャンプ期間の大半を減量に費やし、それでも計量では苦戦し、その後は過食してしまった。 一方のレナードは、キャンプ入りの時点で体が仕上がっていたため余裕でリミットを作り、さらにアンジェロ・ダンディーを通常より早くキャンプに合流させて戦略を練ることができていた。再戦を前にした数週間の記者会見では、僅差で有利と見られていたレナードが付け髭を着けてデュランの訛りを真似て嘲った。そして今回は本気でデュランを憎んでいるのだと記者たちに語った。余裕で体重を作れたことは、まるで先制の一撃のようなものだった。
Tニューオーリンズのスーパードームは、初戦の人気を受け、7万5千人規模で満員、あるいはそれに近い状態になるはずだった。だが実際に集まった観客は2万5千人ほどにとどまった。それでもレナードは、名前の由来でもあるレイ・チャールズによる「America the Beautiful」の演奏のあいだ、笑みを浮かべながらもう一つ強烈な一撃を放った。
初戦から数カ月しか経っていなかったが、1980年11月25日には状況が変わっていた。
「今回は、初戦でレナードが第5ラウンドに目覚ましを仕掛けていたかのように立ち上がりが遅かったのとは違い、ゴングと同時にすぐリング中央へ出ていき、最初のパンチである左を当ててデュランを捉えた。」と「ザ・リング・マガジン」の編集者バート・シュガーは記している。「短い時間、両者が探るように左ジャブを出し合ったあと、デュランが得意の突進を仕掛けた。だがレナードは、危険な距離に立って打ち返されるのを避け、素早く後方へ下がって射程外へ逃れた。」
デュランが前へ出て試合を押そうとすると、レナードはサークルして対応し、第2ラウンドにはデュランを一瞬ぐらつかせた。そしてその後、レナード自身の「亡霊」が目を覚まし始めた。彼はキッド・ガビランやキッド・チョコレートのように腕を巻き上げてパンチを放ち、動きながらジャブを突き刺した。そのジャブは彼の憧れであるモハメド・アリを思わせるものだった。デュランは第3ラウンドで、わずかな成果を得るために必死で食らいつき、引き裂くように攻めるしかなかった。
レナードがただ走ったり下がったりするだけなら、デュランは自分がラウンドを取っていると簡単に思い込めたはずだ。だがレナードは常に先に打ち、ジャブの射程の外へ出さず、前に出てくるデュランを捉え続けた。デュランは第5、6ラウンドで何度か力ずくでレナードをロープへ押し込んだが、そのたびに打ち負ける場面が少なくなかった。
第7ラウンドは終幕への道を開く展開となり、ラウンドの中盤になるとレナードはデュランに向かってあごを突き出し、頭を前後に振りながら挑発し始めた。最初は軽い挑発にすぎなかったが、レナードはそこに「アリ・シャッフル」まで加えて挑発の度合いを強めた。デュランがレナードをロープへ押し込んだ場面では、レナードが打ち合いで上回り、目が回るような強打を何発も叩き込んだ。ラウンド終了の鐘が鳴ると、デュランはレナードに向かって手袋をひらひらさせるだけで、取り合わない姿勢を見せるしかなかった。
第8ラウンドでは、強烈なジャブがデュランの胸に突き刺さった。続けてレナードはジャブを上へ散らし、動きでデュランに空を切らせた。デュランも何発かの押し込み気味のショットを届かせる距離まで詰めたが、レナードは常に準備ができており、最初にも最後にも先にデュランを捉えていた。 レナードはデュランをリング上で翻弄し、ロングレンジのショットを数発当てたあと、クリンチの場面ではデュランの頭を押し下げた。再開後、デュランは誰もが想像もしなかった行動に出た。手袋を投げるように振り、背を向け、明らかに試合を放棄した。
言い訳は次々とあふれ出し、デュランは控室で即座に引退を表明した。勝てる展開の試合で偉大なデュランが不可解な放棄をしたことを受け、記者たちはラティーノ文化における“マチスモ”の歴史を分析し始めた。さらに悪いことに、デュランがその後「自分は言っていない」と主張したフレーズ 「No más」 がアメリカの語彙に入り込み、何十年にもわたって彼に貼りつくことになった。彼のキャリアはその後数年間で下降線をたどり、復活へ至る前の落下となった。
試合を早めに終わらせることをよしとする文化は常に変化しているが、ボクシングにおいて“棄権”が許容されるわけでは決してない。なかには、選手が試合を放棄した後に深刻な怪我が発見されることもあり、その瞬間には知りようがない場合もある。デュランのあの行為は、本来ならいつ棄権が許されるのかという繊細な議論を生み出し得たが、実際にはすぐに残酷な嘲笑へと変わってしまった。
デュラン自身が何をしたかとは別に、あの棄権はレナードから勝利を奪った。レナードはより優れたプランを持って試合に入り、そのプランを遂行し、世界最高峰のファイターの一人を諦めるまでに追い込んだ。怪物を挑発し、生き残った。その事実こそ、本来語られるべき物語だった。