マイク・タイソン対アンドリュー・ゴロタの結末は、もともとひとつの形しかありえなかった――唐突で、何らかの騒動を伴う終わり方だ。偽りの憤慨や道徳アピールを脇に置けば、それこそ多くの人々が望み、テレビの前で期待していた光景だった。
2000年10月20日に行われたタイソンまたはゴロタの試合から、混乱以外のものを期待するなど正気の沙汰ではなかった。二人とも過去に反則負けを経験しており、むしろそれがもう数回あってもおかしくないほどだった。タイソンもゴロタも常に崖っぷちに立つヘビー級で、ほんのささいなきっかけで転落し、もがきながら周囲を巻き込んで落ちていく危うさを秘めていた。
戦績だけを見れば、二人とも一応連勝中だった。しかし、試合内容に付されたさまざまな「※印(アスタリスク)」が示すように、それは大金を手にするまでのあいだ、かろうじて自制を保っているだけの状態だった。
試合の幕開け、タイソンはいきなりオーバーハンドの右を振り回し、ゴロタは距離感をつかめずに苦戦した。ゴロタが最初に当てた数発はボディショットだったが、序盤のタイソンは頭の動きが鋭く、タイミングを合わせづらかった。だが2分過ぎ、ゴロタは鋭いパンチを数発当て、元王者に「反撃する気はある」と知らしめた。
タイソンの右がゴロタの眉の上を切り裂き、巨体のポーランド人はすぐに動揺を見せ始めた。残り15秒ほどのところで、タイソンの右が再び炸裂。ゴロタはのけぞり、キャンバスに腰を落とした。立ち上がったゴロタの頭にあったのは「このリングから出たい」という思いだけだった。ゴングが鳴り、コーナーに戻ると彼は試合を止めてほしいと申し出た。
ゴロタ陣営はなんとか彼を説得し、もう1ラウンドだけ戦うようリングに戻した。
第2ラウンド、ゴロタはクリンチを多用してタイソンの攻撃を殺したが、2分過ぎに打ち合いを強いられると、タイソンが往年のような強烈な連打を見せた。その勢いの中で、タイソンは頭から突っ込み、ゴロタの顔にはいくつもの痕が残った。ラウンド終了間際、ゴロタは鋭いボディショットとやや低めの一撃を放って反撃した。
だが第3ラウンドが始まる前、ゴロタは試合続行を拒否した。トレーナーのアル・サートはマウスピースを無理やり口に押し込み、再びリングに出そうとしたが、ゴロタはリング上をうろつくだけ。タイソンが向かおうとしたところを関係者が制止し、ゴロタは警備員に囲まれて退場した。彼らはかつてのリディック・ボウ戦で起きた大乱闘の教訓を忘れていなかったのだ。
観客は激怒し、ゴロタに向かって飲み物を投げつける。タイソンもすぐにリングを後にした。事態をこれ以上悪化させたくなかったのだろう。
控室でのショータイムのインタビューで、ゴロタは「頭がくらくらする」「頭突きを受けた」と訴え、途中棄権を謝罪した。数日後、医師によって脳震盪、左頬骨の骨折、そして椎間板ヘルニアが確認され、議論はさらに複雑になった。
一方タイソンは、久々に“実績ある相手”に勝利したかに見えたが、ミシガン州当局が試合後の薬物検査で大麻の陽性反応を発表。さらに彼は試合前検査を拒否し、試合後のみ受けていたことも判明した。その結果、TKO勝ちの記録は無効試合(ノーコンテスト)へと変更された。
さらに出場停止処分と罰金を科されたタイソンは、1年後にデンマーク人ヘビー級ブライアン・ニールセンを相手に“調整試合”のような勝利を挟み、その後レ
ノックス・ルイス戦で自らを犠牲にした。それ以降のタイソンは、誰もが認めたくない“別人のようなタイソン”だった。
一方、ゴロタは奇妙なことにその後3年間で気力を取り戻し、クリス・バード戦とジョン・ルイス戦で世界タイトル奪取まであと一歩に迫った。しかし、最終的にはラモン・ブリュースターに初回で粉砕され、トップ戦線における居場所を完全に失った。
もしタイソンとゴロタのリング上での精神力がもう少し強ければ、この試合はまったく違う展開になっていたかもしれない。二人はともに、才能と技術を兼ね備えながらも、“ボクシングという奇妙な世界”に順応しきれず、本来の自分を発揮できなかったヘビー級だった。
タイソン対ゴロタ戦は、名勝負でも激闘でもなく、厳密には勝ち負けすら語るに値しない。1990年代から2000年代にかけてのヘビー級戦線に頻発した混乱のひとつとして、ただその渦中に埋もれていっただけだった。