南アフリカのエンペラーズ・パレスのホテルのロビーは、常に活気に満ちていた。観光客や大口のギャンブラーが行き交い、時折、次の試合に出場するボクサーたちが立ち止まり、会話を交わしていた。私は周囲を見渡しながら、元世界ヘビー級王者であり、3度の戴冠を果たしたレノックス・ルイスを待っていた。大柄な男は普通すぐに見つかるものだが、ルイスは違った。
突然、背後から聞き覚えのある声がした。振り向くと、そこに彼がいた。レノックス・ルイスは猫のように静かに動く。
「うちの妻もいつもそう言うんだよ」と、彼は笑った。
今では引退したレジェンドは、妻と4人の子供たちと共にカナダのトロントで暮らしている。彼には3人の娘と1人の息子がいる。息子はボクシングについてしっかりとした知識を持っている。しかし、ボクシングに関わることには興味がなく、映画制作に専念する道を選んだ。
「彼は日本のスタイルにハマっていて、アニメを作っている。ボクシングのこともよく知っているから、いいトレーナーになれるかもしれないけど、それは自分には向いていないと決めたんだ。」
近年、ボクシング界の品格ある長老としての役割を果たすだけでなく、有望な若手の指導やマネジメントにも力を入れている。
「ちょっとした助けが必要な若い選手を見つけては手を貸しているんだ。でも、セコンドにはつきたくない。それじゃ意味がないからね。ラウンドの合間に声を張り上げるのが好きなんだ。レフェリーはファンに『黙れ』とは言えないからね。」と、彼は笑った。
そのうちの一人がジュニアミドル級のケストナ・デイビスだ。彼は南アフリカで行われた試合で、ピエター・デ・クラークを4ラウンドKOで下した。
ルイスは1988年のソウルオリンピックでカナダ代表として出場し、リディック・ボウを2ラウンドでストップして金メダルを獲得した。その後、母国に戻り、イギリスでプロキャリアをスタートさせた。
すでにヨーロッパ王者となっていたルイスにとって、最初の大きな試練は1991年の15戦目だった。この試合で、当時35戦無敗の英国王者ゲイリー・メイソンと対戦した。メイソンは32KOを記録しており、一部では「時期尚早すぎる挑戦」と見なされていた。
「当時、ゲイリー・メイソンのことは知っていたし、友人だった。彼はその頃バスの運転手をしていて、フランク・ブルーノが自分と戦おうとしないことをいつも愚痴っていたよ。でも、俺は心配していなかった。自分の方が彼より速いと分かっていたからね。」
続いて、元WBA王者のマイク・ウィーバーと対戦し、ラスベガスで6ラウンドKO勝ちを収めた。
「この試合から学んだことがある。ウィーバーのジャブは素晴らしかった。彼は最後の瞬間に手首を返して、ジャブにさらに威力を加えていた。その技術を俺も真似したんだ。」
また、同じオリンピックのスーパーヘビー級金メダリストであるタイレル・ビッグスを3ラウンドでストップした試合もあった。
偉大なアマチュア選手の中にはプロでも成功する者がいる一方で、なぜか最後まで結果を出せない者もいる。その違いは何なのだろうか?
「ビッグスの場合は、ドラッグが彼をダメにした。彼が所属していたオリンピック代表チーム全体の問題でもあった。常にドラッグが周りにあったんだ。才能の問題じゃない。彼は優れたボクサーだったよ。」
1992年、ロンドンのアールズ・コートで行われたWBC最終選考試合で、ルイスにとって大きなチャンスが訪れた。相手はドノバン "レイザー" ラドック。彼の代名詞ともいえる左フックとアッパーカットを融合させた「スマッシュ」は強烈で、このカナダ人コンテンダーは本物の脅威と見なされていた。
ラドックは、それまでマイク・タイソンとの壮絶な2戦を戦い抜き、敗れはしたもののその実力を証明していた。さらに、グレッグ・ペイジやフィル・ジャクソンをストップして勢いに乗っていたため、彼のパワーがルイスには荷が重すぎると考える者もいた。しかし、その懸念は杞憂に終わった。ルイスはラドックをわずか2ラウンドで粉砕したのだった。
「あっという間だったけど、みんな満足して帰ったよ。」と、ルイスは振り返る。
リディック・ボウが、統一王者となったばかりにもかかわらず、指名挑戦者との防衛戦を避けるためにWBCのベルトをゴミ箱に捨てたことで有名な一件が起こった。これを受け、WBCはルイスを新たな王者に認定し、彼の最初のタイトル保持時代が幕を開けた。
私たちは、実現しなかった“スーパー・ファイト”について少し触れた。もしリディック・ボウとの試合が実現していたら、ルイスはどのように戦っていただろうか?
「俺のアマチュア時代のタイレル・ビッグス戦を見てみるといい(ルイスは1984年オリンピックの準々決勝でビッグスに敗れている)。それから、プロでのビッグス戦を見てみろ。それが違いだよ。ボウとも同じように戦っていただろう。プロでのビッグス戦と同じように、まっすぐ攻め込んでいたはずさ。」
彼は最初のタイトル保持期間に3度の防衛に成功し、その中でもフランク・ブルーノ戦について話が及んだ。この試合が行われた1993年のイギリスでは、ボクシングへの関心が最高潮に達していた時期だった。
ルイス対ブルーノ戦の数日後には、クリス・ユーバンク対ナイジェル・ベンのリマッチも行われ、ボクシング界は熱狂に包まれた。あの時代の英国ボクシングの熱気を振り返るドキュメンタリーシリーズ 「Four Kings」が、現在Amazon Primeで配信されている。
「フランクをちょっと挑発して、名前を呼んだりしてカチンとさせたんだ。俺は彼に向かってこさせたかったからね。」
ブルーノはまさにその通りに動き、序盤は好戦的に試合を進めていた。しかし、ルイスが7ラウンドで試合を終わらせた。
「彼は俺に対して短いアッパー気味のパンチを使うというミスを犯した。俺は低く構えてチャンスをうかがい、隙ができた瞬間に左フックを叩き込んだ。」
この一撃が決定打となり、ルイスはフィニッシュのコンビネーションを叩き込み、イギリスの英雄ブルーノをロープ際で無力化した。
翌年、ルイスにとって悲劇が訪れた。オリバー・マッコールの右ストレートを2ラウンドで浴び、ダウンを喫したのだ。立ち上がったものの、試合はそのままストップされた。
試合のストップは早すぎたのか? ルイスはこの件について強い意見を持っている。
「間違いなく早すぎたよ。俺はカウントに間に合って立ち上がった。俺はチャンピオンだったんだ。なのに、反撃のチャンスすら与えてもらえなかった。」
ルイスはこの敗北を受けて、トレーナーをエマニュエル・スチュワードに変更した。次戦ではWBCの挑戦者決定戦でライオネル・バトラーに勝利したものの、タイトル戦線から締め出される形となり、その後2年以上も世界王座への挑戦が実現しなかった。
しかし、彼は勝ち続けた。特に印象的な勝利として、トミー・モリソン戦、そしてもう一人のオリンピック金メダリストであるレイ・マーサー戦が挙げられる。マディソン・スクエア・ガーデンで行われたマーサー戦は激闘となり、ルイスは僅差の判定勝ちを収めた。
「あの試合は楽しかったよ。観客が熱狂していたからね。マニー(スチュワード)は『ボクシングしろ!撃ち合うな!』って叫んでたけど、俺はあの打ち合いを楽しんでいた。マーサーの右を受けても耐えられるし、それを打ち返せるってことを見せたかったんだ。」
ルイス陣営は、WBC王者となっていたマイク・タイソンに対し、指名挑戦権を行使しようと全力を尽くした。しかし、タイソンはWBC王座を返上し、代わりにWBA王者ブルース・セルドンと対戦する道を選んだ。
再びルイスは仕方なく別の道を進むことになり、空位となったWBC王座をかけて宿敵オリバー・マッコールと対戦した。しかし、この試合は異様な展開を見せた。マッコールは途中から戦意を喪失し、試合を放棄するような態度を見せた。ルイスは5ラウンドでTKO勝利を収め、再びWBC王座を手にした。
この奇妙な試合について、ルイスの見解は明快だった。
「ドラッグだよ。」彼は淡々と語る。「オリバー・マッコールはキャリアを通じてずっとドラッグの問題を抱えていた。だからこそ、マニー(スチュワード)は彼とやっていけなくなり、離れたんだ(スチュワードは最初のルイス戦でマッコールを指導していた)。」
ルイスは2度目の王座時代に9度の防衛に成功した。その間、彼は強打者たちと次々に対戦した。デビッド・トゥアのような相手には、余裕を持ってアウトボクシングし、試合をコントロールした。一方で、アンドリュー・ゴロタやマイケル・グラントのような相手は、素早く仕留める戦術を選んだ。
どのように戦術を決めていたのか?
「相手によるんだよ。」ルイスは語る。「トゥアのような相手には、無理に倒しに行かず、ジャブを使ってボクシングをした。でも、ゴロタやグラントのような選手には、一気にプレッシャーをかけて倒しに行った。試合ごとに最適な戦い方を選んでいたんだ。」
それほど複雑な話ではなかったようだ。ルイスは、興味深いエピソードを語ってくれた。
「うちの母はいつも試合前の食事を作ってくれるんだけど、その時はいつもと違うスパイスを使っていたんだ。俺はスコッチ・ボネット・ペッパーが好きなんだけど、ネバダでは見つからなかったらしく、代わりに別のものを使ったらしいんだ。
それで試合前になって、なんだかお腹の調子が変な感じがしてきた。だから母に聞いたんだ。『どんなペッパーを使ったの?』って。そしたら母が、『スコッチ・ボネットが見つからなかったから、代わりにハバネロ・ポッパーズを使ったのよ』って言うんだ。
『ああ、なるほど、ハバネロのせいでこうなってるんだな』と思ったけど、試合前にトイレに行くべきか、それともそのままリングに行くべきか迷ったよ。結局、試合に向かったんだけどね。
対戦相手が俺を変な目で見てきたんだよ。それで俺は『お前、誰にそんな目を向けてるんだ?』って感じでムカついた。そこにペッパーの刺激も加わって、一気にスイッチが入った。それで、ガンガン攻めてコンビネーションを叩き込んだら、あっという間に終わったよ。」
「じゃあ、試合の鍵は食事であって、ローブローを避けることじゃなかったってこと?」と、私はさらに突っ込んだ。
「それも理由のひとつさ。ゴロタと戦うって言うたびに、みんな『うわっ』って顔をしかめながら股間のあたりを指さすんだよ(笑)。
俺は『こいつ、絶対にローブローを打つなよ。まだ子どもができてないんだからな』って思ってた。それがまたムカついたんだよね。だから、この試合は特別に集中してたんだ。
スパイシーなペッパーのせいでお腹は変な感じだったし、ゴロタが俺を変な目で見てきたし、さらに周りのやつらが『うわっ、またローブローが来るぞ』みたいに言うのもイライラした。そんなのまっぴらごめんだから、一気に片付けたんだよ。」
彼は1998年、激しい打ち合いの末、シャノン・ブリッグスを5ラウンドでストップした。この勝利により、ブリッグスがそれ以前にジョージ・フォアマンを破っていたことから、ルイスは実質的な「リニアル王者」として認められることになった。
しかし、本人はその経緯をあまり意識していなかったようだ。
「おぉ、リニアル王者ってのは、そういう経緯で決まったのか?」と、驚いた様子で語った。
もしフォアマンがブリッグス戦で勝利していたら、彼と戦っていたか?
ルイスは首を横に振った。
「いや、ジョージとは戦いたくなかったよ。それは負けても勝っても損をする試合だからね。俺が勝てば、『年寄りをボコボコにした』って言われて、みんな大好きなジョージを倒したことで嫌われる。でも、もし負けたら、『年寄りに負けた』ってことで俺の評価はガタ落ちだ。どっちに転んでもいいことがないんだよ。」
1999年、ついにルイスは悲願の「世界統一王者」の座をかけて、WBA・IBF王者のイベンダー・ホリフィールドとマディソン・スクエア・ガーデンで対戦することになった。
「ホリフィールドとのボクシングを楽しみにしていたよ。彼は優れたボクサーだったし、クルーザー級から上がってきた数少ない成功例の一人だったからね。」
試合では、ルイスがほぼすべてのラウンドでホリフィールドをアウトボックスしているように見えた。しかし、試合終了後、彼の勝利が宣言されることはなかった。結果はまさかのスプリットドロー。
「あれは最悪の気分だったよ。ボクサーなら誰もがキャリアの中でこういう試合を一度は経験するものだと思う。残念ながら、俺は二度も経験することになったんだけどね。」
世間の激しい抗議を受け、その年の後半にラスベガスでホリフィールドとの再戦が組まれた。皮肉にも、この2戦目のほうがより競った試合になった。しかし、ルイスは判定で勝利し、ついに悲願の世界統一王者となった。
「2戦目の時、彼はリングに向かう途中で歌ってなかったんだよ。1戦目の時は、歌いながら入場してきて、『こいつ、俺を本気で相手にしてないな』って思った。それがまたムカついたんだよね(笑)。だから、リングに上がって徹底的にアウトボクシングしたんだ。」
「1戦目ではとにかくボクシング、ボクシングって感じだった。試合後、ホリフィールドはボロボロで、記者会見にも出られなかったくらいだった。でも、2戦目では彼も俺をしっかり研究して準備してきた。だから俺は『壊れてないなら直す必要はない』って考えた。ただ同じように戦って、勝っただけさ。」
ルイスはホリフィールドに対して大きな敬意を持っており、今でも彼を「最強の対戦相手」と評価している。
「ホリフィールドはすべてを兼ね備えていた。ディフェンスも素晴らしかったし、オフェンスも優れていた。」
2001年、ルイスにとって大きな悲劇が訪れた。南アフリカで行われた試合で、ハシム・ラーマンに5ラウンドKO負けを喫したのだ。何が原因だったのか?
彼はため息をついた。
「正直に言うと、ラーマンに対してちゃんと準備していなかった。マイク・タイソンと戦う時のような準備はしていなかったんだ。俺にとって、ラーマン戦はただの1試合に過ぎなかったからね。試合自体は問題なく進めていたけど、グローブの上からパンチをもらってしまって、それで終わった。」
試合後、ルイスは当時の南アフリカ大統領であり、大のボクシングファンでもあったネルソン・マンデラを訪問した。しかし、残念ながらその時点では「元チャンピオン」となっていた。
マンデラは彼を励まし、こう語った。
「心配するな。次は必ず勝てる。」
その言葉はまさに預言のようだった。同年、ルイスはハシム・ラーマンとの再戦に臨んだ。この試合は、彼自身がキャリアの中で最も気に入っている試合だと語るほど、完璧な勝利となった。
4ラウンド、鋭いワンツーが炸裂し、ラーマンは背中からマットに叩きつけられた。ルイスは見事に王座を奪還し、史上3度目のヘビー級王者となった。
「テレビの映像を見ればわかるよ。俺がパンチを当てた瞬間、ラーマンはリングのキャンバスにあるドン・キングのロゴの上に倒れ込んだんだ。あれは最高の気分だったね!」
ついに、2002年に待望のマイク・タイソン戦が実現した。ルイスは試合を通じてタイソンに圧倒的なダメージを与え、最終的に8ラウンドKOで勝利を収めた。
この試合をあまりにも楽に見せたことについて、驚きはなかったのか?
「いや、全然驚いてないよ。」ルイスは力強く答えた。
「エマニュエル・スチュワードは俺に『これが一番楽な試合になる』って言ったんだ。俺は『えっ、本当に?』って聞き返したけど、彼は『そうさ、お前にとって一番楽な試合になる』って断言してた。
それから俺も、その意味がわかった。これまでの試合すべてが、タイソン戦のための準備だったんだって。」
ルイスの最後の試合は2003年6月に行われた。相手は後にヘビー級を支配することになるウラジミール・クリチコ**の兄、ビタリ・クリチコ**だった。
この試合はロサンゼルスのステープルズ・センターで行われ、両者が強打を交換する激闘となった。観客を沸かせる戦いとなったが、試合を決定づけたのはルイスの強烈なパンチだった。それによってクリチコの**左目上に深いカットができ、ドクターストップによる6ラウンドTKO勝利**となった。
珍しく、元々の対戦相手よりも代役の方が強いというケースになったこの試合。当初、ルイスはカーク・ジョンソンと対戦する予定だったが、ジョンソンの負傷によりビタリ・クリチコが代わりにリングに上がることになった。
この突然の対戦相手の変更は、ルイスに影響を与えたのだろうか?
「正直、いい影響ではなかったよ。」ルイスは認める。
「でも、俺のコンディションが最悪の時でも、彼のベストの状態に勝ったんだから、それがすべてさ。」
ルイスは、41勝(32KO)2敗1分という輝かしい戦績を残し、リングを去ることを決意した。
何よりも特筆すべきは、彼が対戦した全ての相手に勝利しているという事実だ。2敗を喫したものの、どちらもリベンジを果たし、完全に決着をつけた。偉大なキャリアに幕を下ろすには、これ以上ない形だった。
それは間違いなく正しい決断だった。ルイスは今も健康的で、見た目も声も力強い。
もしボクシングを知らない人が彼を見たら、バスケットボール選手か、他のプロアスリートと勘違いするかもしれない。それほど彼は、今もなお堂々とした存在感を放っている。
最も過酷なスポーツであるボクシングから、健康と財産を守って引退する秘訣は何なのか?
これは多くのボクサーが答えを見つけられずに苦しむ問題だ。ルイスはどうやってそれを成し遂げたのか?
「いいボクサーになりたい、そして偉大なボクサーになりたいなら、モハメド・アリの言葉を聞くべきだよ。俺はアリの言葉を信じたんだ。彼はこう言った。
『打って、打たれるな。』
打たれなければ、ボクシング人生は長くなるし、健康も保てる。それが長く戦える秘訣だ。」
「じゃあ、お金を守るにはどうするか? それも簡単さ。貯めるんだよ。俺は母の言葉を守った。母はこう言ったんだ。
『一度に乗れる車は1台だけ。』
だから俺は1台しか買わなかった。でも、周りを見れば、2台、3台、4台と買っているやつがいる。なんでそんなに必要なんだ? いらないだろう。」
現代のヘビー級の偉大な王者からの、実に賢明な言葉だ。