敬虔なムスリムであるライト級コンテンダーのカート・スコビーにとって、3月22日に予定されているセサール・ビジャラガとの試合は、非常に難しい決断を伴うものだった。というのも、その日はラマダン(断食月)の真っ只中にあたるため、スコビーは数日間悩み続けた。
試合自体をキャンセルするか、断食を守りながら減量とトレーニングを行うか、あるいは通常通り食事とトレーニングを続けて後日断食を補うか――その選択肢の間で揺れ動いたスコビーだったが、イマーム(イスラム指導者)と相談した結果、後者の「通常通りの食事とトレーニングを行い、後日断食を補う」という判断に安心して踏み切ることができた。
導きを求め、失った日々を取り戻すこと――それはこの1年間のカート・スコビーの物語を貫くテーマだ。
ちょうど1年前、スコビーはプロ初黒星を喫した。相手は16対1の大穴とされていたダコタ・リンガーで、6ラウンドTKO負けだった。その時点でスコビーは、アメリカのボクシング界でも特に注目を集める有望株のひとりだった。彼は、若手アスリートのプロモーションでバスケットボールやアメリカンフットボール界でもブランドを築いてきた「オーバータイム」に所属し、SNSを通じて着実に知名度を高めていた。
「ひとつだけ言えるのは、あの敗戦のあと、あまり知られてないけど、すぐにロッカールームに戻って、礼拝用の敷物を広げたんだ。そしてすぐに祈りを捧げた。『あなたが僕に何かを教えようとしているのなら、もう十分に伝わった。ちゃんと学びました。ありがとう』ってね」と、スコビーは語った。
スコビーにとって次に必要だったのは、「自分が何を学ばなければならなかったのか」という具体的な答えを見つけることだった。試合の翌日、彼はフィアンセと息子を連れてワシントンD.C.へと車を走らせた。心の整理と、自分自身を見つめ直すための旅だった。
ワシントンに到着したスコビーは、トレーナーのヘクター・ベルムデスとつながることになる。本来は、ベルムデスのジムでの今後のスパーリングについて話し合う予定だったが、このときスコビーは単なるスパーリングパートナーとして話をしに来たわけではなかった。彼自身が助けを求めていたのだ。長年指導を受けてきたドン・サクスビーとレオン・テイラーから離れ、新たな環境を求めていた。
ベルムデスが電話を取ると、そこには2日前に賭けた20連勝パーリー(複数試合の連続予想)をスコビーの敗戦で台無しにされた本人の声があった。
ベルムデスはダコタ・リンガー戦でのスコビーのパフォーマンスに一定の印象を受けてはいたが、彼には「基本的なサバイバルスキル」が欠けていると感じていた。試合中にリンガーのパンチで動揺した際、スコビーはそこから立て直す術を持っておらず、それが連鎖反応となってストップ負けにつながったとベルムデスは見ている。
大学ではアメリカンフットボールの選手だったスコビーは、ボクシングの世界には比較的遅れて足を踏み入れた選手であり、これまでは容赦ないアグレッションと並外れた身体能力を武器にしてきた。だがベルムデスは、その能力だけでは限界が見えていたと分析し、いくつか基本的な修正を加えることで、スコビーが再び期待に応える存在になれると確信した。
ベルムデスは、スプリングフィールド(マサチューセッツ州)にある自身のジムの所在地と、道に迷わないようにとそのジムの映像もスコビーに送った。こうして2人の新たなパートナーシップが始まった。
スコビーは車に荷物を積み込み、妻と子どもをニューヨークの自宅に送り届けた後、そのままスプリングフィールドへと向かった――かつては地図上でその場所を指し示すことすらできなかった町へ。
新しい環境に身を置いたにもかかわらず、スコビーにとってそこにはどこか「冷たい既視感」があった。ベルムデスのジムは元消防署を改装したもので、複数の選手たち、時にはベルムデス自身もその場に寝泊まりしている。
12歳の頃から14もの里親家庭を転々としてきたスコビーにとって、その光景は瞬時に心の奥を刺激するものだった。まるで過去の記憶を呼び起こすような環境――彼にとっては、ただのジム以上の意味を持っていた。
「最初にそこに着いたとき、まるで里親の家に来た時みたいに感じたんです。スーツケースを持って行って、部屋を与えられる。それはどの里親の家でも同じで。だから、着いた瞬間に心が崩れました」とスコビーは語り、当時の感情をベルムデスに電話で伝えたという。
「本当に子どもの頃に戻ったような感覚でした。荷物も開けなかった。里親の家でのひとつの特徴って、それなんです。来たばかりの子どもたちは、最初の1週間か2週間は荷解きしない。だって、すぐに出て行くかもしれないから。移されるかもしれない。自分が出ていくかもしれない。だから、俺もそうだったんです。ベッドの上でただ横になってて、こう思いましたよ…“くそ、泣きたくなるな”って。」
しかしスコビーは、そこですぐに受け入れてくれる存在たちに囲まれていることに気づく。元世界王者のTJ・ドヘニーをはじめとするハイレベルなプロ選手たちが、彼を仲間として迎え入れてくれた。
そして何より重要だったのは、ボクシングというまだ比較的新しい世界で感じていた不安や戸惑いを、ベルムデスが一つひとつ取り除いてくれる“教師”だったということだ。どんなに基本的な質問でも、ベルムデスの前では遠慮する必要がなかった。というのも、彼の指導法は「徹底した基礎の反復」に根ざしているからだ。
例えば、スコビーは仲間たちと何時間もかけて「ジャブを捌くだけ」の練習に取り組んだことも一度や二度ではない。40ラウンドに及ぶ“基礎だけのセッション”も珍しくなく、むしろ今ではそれがスコビーにとって「当たり前」の基準になっている。
この環境のおかげで、スコビーはフットボールから持ち込んでしまっていた悪い癖――蓄積された怒りや攻撃性をそのままリングに持ち込むこと――を手放すことができた。一方で、彼の中にあった「良い本能」は活かされることとなった。たとえば、試合映像の研究に対する異常なまでの情熱や、細部へのこだわりといった部分だ。
ベルムデスのもとで、スコビーはその情熱を正しい方向に向ける術を学び、本能と理性のバランスを取れる選手へと進化していった。
「オーバータイムっていうプラットフォームに所属してから、彼らは本当に上手に選手を盛り上げてくれる。でも、それって時々フットボールのときと同じなんですよ。みんなが持ち上げてくれて、それが頭にのぼっちゃう」とスコビーは語る。
「でも今の自分は違う。もう“観客のために”なんて考えてない。自分自身の心の平穏、そして家族の平穏のために戦ってる。だからこそ、ボクシングをそういう目で見るようになった。リングに上がるときは謙虚さを忘れない。それを最初から教えてくれたのがコーチなんだ。何度もコーチの話に戻ってしまうけど、でも、それが紛れもない真実なんだよ。」
スコビーにとっての“お披露目”とも言える試合が、土曜夜のセサール・ビジャラガ戦だった。新たな考え方、新たな学び方を携えて臨んだ最初の一戦。ここ数か月、彼のもとにはオスカー・ドゥアルテやルーカス・バーディの陣営から、短期通知での代役出場の打診が届いていたという。これは、ボクシング界全体が、彼を2023年から2024年初頭にかけて「恐るべきハードパンチャーの新星」として見ていた時とは、認識が大きく変わってきたことを示している。
当時のスコビーは、マッチメイカーたちからしても、そもそも短期オファーに応じるタイプではないと見られていたし、たとえ空いていたとしても「危険すぎて相手にさせられない」と思われていた存在だった。だが今は、“使える選手”として現実的に名前が挙がるようになっている。それは同時に、彼のこれからが本当の意味で試されるフェーズに入ったことを意味している。
とはいえ、スコビー自身はこうした変化について深く考え込むようなタイプではない。なぜなら、それは過去に執着し、かつての自分が抱いていた慢心。今まさにリングの内外で手放そうとしているものに再び身を委ねることになるからだ。
彼は今、過去にすがるのではなく、謙虚さを武器にして、目の前の一歩を着実に進もうとしている。
「イスラム教って、限界がないんです。誰かの上に立つこともできない。だから、常に成長し続けるんですよ。それが僕がこの宗教から学んだことの一つです。そして、成長には必ず“プロセス”があるってこともわかってる。だから、僕は日々祈ってる。困難を、そして忍耐を。でもその“困難”が実際にやってくると、自分でも思っちゃうんですよ。『なんでこんなことが起きるんだ?』って。でも、いや違う。それは自分が祈ったことなんだ。受け入れろ、理解しろ、深呼吸して、それを糧に成長するんだ。それが、僕がやってることです」とスコビーは語る。
「多くの人は何かを願うけど、それが実際に目の前に現れたときにどう向き合えばいいかわからない。だからこそ…あの消防署のジムは、少年を男にする場所なんですよ。本当にね。」