名もなきブルーカラーのボクサー、ジェイク・ロドリゲスは、プロとして大成するとは誰にも思われていなかった。だが彼は、同世代の最高の選手たちと拳を交えるだけでなく、1990年代半ばには大金星を挙げてジュニアウェルター級の世界王座を獲得するまでになった。
ロドリゲスは11人きょうだいのひとりとして、プエルトリコ南部のアロヨで1965年10月2日に生まれた。本名はエバリスト・ロドリゲスである。
「子どもの頃はよかったよ。父が食料品店をやっていて、学校のあとに手伝っていたんだ」とロドリゲスは
『ザ・リング・マガジン』に語った。「家族に囲まれて育ったよ」
彼がボクシングを始めたのは14歳のとき、プエルトリコにてであった。
「いとことグローブをつけて遊んでいたんだけど、ジムには通ってなかったんだ」と彼は振り返る。「ある日カーニバルがあって、いとこが『ジェイク、お前試合してみろよ』って言ってさ。当時の俺は体重が98ポンドしかなかった、16歳のときだ。初めての試合で、2ラウンドで相手をノックアウトしたんだ」
そこから物事は進展し、ロドリゲスはプエルトリコで11戦のアマチュア戦績を積み、近隣のポンセで地域タイトルを獲得した。
18歳になると、よりよい生活を求めてアメリカ東海岸に移住する。
「学がないと仕事を見つけるのが難しいんだ」と彼は言う。「兄がロングアイランドに住んでいて、『行っていいか?』と聞いたら『もちろんだ』と言ってくれた。だからアメリカに来て、セントラル・アイスリップに住んで、仕事を2つ3つ掛け持ちしてたよ。板金工場で政府向けのパーツを作っていたし、機械も動かしていた。夕方6時から深夜12時まではメール工場で郵便の仕分けもしてた。小型の運搬機も運転してたな、運転はいつも俺の役目だった」
新天地で新たな生活を送っていたが、ボクシングへの情熱は失われなかった。
「ブレントウッドのジムに行ったんだ。そこはバディ・マクガートが練習していたところさ」と彼は回想する。「ジムでトレーニングしている連中を眺めていて、誰かと話したんだ。英語はあまり話せなかったけど、そいつが『好きなときに来なよ』って言ってくれた」
「だから仕事を1つ辞めて、ジムに通い始めた。1ヶ月半くらい練習してから、1986年にニューヨーク・ゴールデングローブに出場したんだ。その後さらに12試合くらいやって、2回準々決勝まで進んだ」
アマチュア戦績24勝3敗のロドリゲスは、1988年9月にプロ転向を決意した。
「アトランティックシティで試合をしたんだけど、きつい試合でね、かなり接戦だった」とロドリゲスは語る。その試合は4回戦引き分けに終わった。「相手の地元で接戦になると、結果はどうなるか分かるだろ? 俺のファイトマネーは450ドルだったと思う」
気落ちすることなく、ロドリゲスはキャリアの大半をパートタイムで働きながら、9連勝を記録したのち、ベテランのマイク・ブラウンに初黒星を喫した。
「相手は重かったよ」とロドリゲスは当時を振り返る。彼の体重は141ポンドだったが、ブラウンは5ポンド重かった。
「こっちは全力で打ち込んでたけど、レフェリーに『ブレイク』って言われた瞬間に打たれて倒れたんだ。最初は俺の勝ちになってたのに、あとでコミッショナーが結果を覆した。理由は分からない」
その後、無敗のカナダ代表オリンピアン、ハワード・グラントと6回戦で引き分けたロドリゲスは、ベテランのジョン・ラフューズ(判定勝ち10回)や、1敗のカール・グリフィス(スプリット判定勝ち8回)などを下し、経験を積んでいった。
そして1991年12月、母国プエルトリコに戻って無名の新鋭、フェリックス・トリニダードと対戦するチャンスを得た。
「俺たちも相手が誰なのか知らなかったんだ」と彼は明かす。「マネージャーに『プエルトリコで試合がある』って言われてさ。相手は12勝無敗の若手だったと思う。体重差は明らかで、140ポンド級と言われてたけど、実際は違った。次の試合は147ポンド級だったし、もう減量できなかったんだ」
「1ラウンド目で相手の強さを感じたよ。2ラウンドか3ラウンドでダウンしたけど、そこから少し盛り返した。でもそれ以上はできなかった。ダメージを負うとリズムが崩れる。試合は10ラウンドの判定負けだった」
「試合のあとに話したんだ。『君は本当に強い。この先すごく伸びるよ』って。そして実際そうなった」
その後、ロドリゲスは140ポンド級でアメリカに戻り、次のチャンスに備えて7連勝を重ねていたところに別の話が舞い込んだ。
「フロリダで
パーネル・ウィテカーのキャンプに参加してたんだ。
フリオ・セサール・チャベスと対戦予定だったけど、2週間前に試合が中止になった。そしたらトップランクから電話があって、『チャールズ・マレーとやるか?』って言われたんだ。『やる、準備できてる』って答えて、もう1週間フロリダで仕上げてからアトランティックシティに向かった。試合まで2~3週間の準備期間だった」
「パーネル・ウィテカー、ラウル・マルケス、アートゥロ・ガッティといった名選手たちとスパーしてたから、これまでで一番楽な試合だったよ。自信があったし、頭の中がクリアだった。世界タイトル戦は人生最大の夢だった。誰も俺があれほど賢く戦うとは思ってなかった。完全に打ち勝ったよ」
タイトルを手にしたあと、ほとんどのボクサーが人生最大の夢を叶えた達成感に浸るものだが、彼が次にとった行動は極めて異例であり、同時に彼という人間を象徴するものであった。
「試合が終わるとすぐにセントラル・アイスリップの自宅に戻って、翌朝8時にはいつもの職場に一番乗りで出勤したんだ。俺はバイクショップで働いていたんだけど、同僚たちは『おい、何してるんだよ?帰れよ!』って驚いてたよ。俺がいつも店を開けてたけど、みんな俺がまだアトランティックシティにいると思ってたんだ」
その後の防衛戦では、長年ランカーだったレイ・オリベイラ(判定勝ち12回)を下し、無敗の1988年五輪銀メダリスト、ジョージ・スコット(9回終了TKO)も破った。
「オリベイラには手数で勝って、頭脳でも上回った。スコットも何度かダウンさせた」とロドリゲスは語る。
1995年初頭、ロドリゲスはラスベガスに向かい、アマチュアエリートかつプロで急成長中だったコスチャ・チューとのIBF王座防衛戦に挑んだ。
「試合の序盤でいきなり捕まってダウンしたけど、立ち上がって少しは挽回できたと思う」とロドリゲスは語る。「彼はパンチがとても強くて、しかも頭が良かった。第6ラウンドで4回倒されても何度も立ち上がったけど、レフェリーのリチャード・スティールが『もう十分だ、これ以上は無理だろう』と言って試合を止めたんだ」
その後2連勝して復帰したロドリゲスは、1995年11月、アトランティックシティのコンベンションセンターで当時PFPナンバーワン、WBC王者だったパーネル・ウィテカーとのウェルター級戦に挑んだ。
「チャンスだと思ったよ。普段は148~150ポンドで歩いてたし、140ポンドとの体重差もそこまでじゃなかった。ファイトマネーは30万ドルで、キャリア最高額だった」
「実は試合のずっと前から、フロリダでパーネル・ウィテカーのトレーニングキャンプに参加していたから、彼からは多くを学んでいたんだ。もっといいパフォーマンスができると思っていたけど、そううまくはいかないこともある。彼の腎臓あたりへのパンチは本当に痛かったよ」
その後、ロドリゲスは4試合を行い、チャールズ・マレーとの再戦(7回TKO負け)やシャノン・テイラー(3回KO負け)など、強豪相手に全敗して引退。戦績は28勝8敗2分(20KO)であった。
ボクシングを引退した後も、ロドリゲスは働き続けており、当初はトラックや乗用車のタイヤ交換の仕事に就いていた。現在はトラック会社で複数の役割を担うメンテナンススタッフとして働いている。
59歳になったロドリゲスは、30年以上連れ添った妻とともに、ロングアイランドのコーラルに暮らしている。夫婦の間には2人の息子がいる。そんな彼が『ザ・リング・マガジン』の取材に応じ、これまで対戦してきた中で最も印象に残る相手を10のカテゴリーに分けて語ってくれた。以下はロドリゲスが選ぶ「対戦した中で最高の相手」各部門である:
ベストジャブ
フェリックス・トリニダード:「リーチが長くて、素晴らしいジャブだった。速かったし、パーネル・ウィテカーよりも良かった。力もあった」
ベストディフェンス
パーネル・ウィテカー:「すごく速くて、足もサイドステップも上手かった」
ベストフットワーク
ウィテカー:「体重の割にすごく速く動けて、時には見失うほどだった」
ベストハンドスピード
コスチャ・チュー:「信じられないかもしれないが、あいつは速かった。3発、4発の連打を速くて強く打ってきた。何度もそれで倒された」
最も賢いファイター
シャノン・テイラー:「無駄打ちがなかった。こっちが打った瞬間に反撃してきた」
最強
カール・グリフィス:「ロッキー・バルボアとグリフィスで迷うけど、グリフィスにしておく。すごく強かった」
ベストチン(耐久力)
ジョン・ラフューズ:「ロッキー・バルボアのようだった。何を打ってもびくともしなかった。ラフューズにもボディ、顔、全部打ったが効かなかった」
ベストパンチャー
チュー:「本当に痛かった。強烈なパンチャーだった」
ベストボクシングスキル
ウィテカー:「フェリックス・トリニダードもすごく頭が良くて、あそこまで行けた理由がわかる。けど、どちらかといえばウィテカーのほうが上だったと思う」
総合ベスト
ウィテカー:「とにかく速くて、動きがスムーズだった。KOアーティストじゃなかったけど、頭が良くて、正しいパンチを正しい場所に打てば人を倒せるということを証明していた」
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