元世界ジュニアミドル級・ミドル級王者であり、1992年に国際ボクシング殿堂入りを果たしたニノ・ベンベヌティが、火曜日にイタリア・ローマで逝去した。享年87歳。
1968年には
「ザ・リング・マガジン」よりファイター・オブ・ザ・イヤー)に選出されている。
「ニノ・ベンベヌティは、イタリアボクシング史上最高のボクサーであるだけでなく、同国スポーツ界における最大のアイコンとして永遠に記憶されるだろう。」とWBC会長マウリシオ・スライマンは火曜夜、「ザ・リング・マガジン」に語った。「オリンピック王者として栄光のキャリアをスタートさせ、WBC世界スーパーウェルター級、ミドル級王座を獲得。カルロス・モンソン、エミール・グリフィス、ラウル・バルデスといった偉大なファイターたちと凌ぎを削った名選手だった。」
「ニノは真のジェントルマンであり、品格と誠実さを兼ね備えた人物だった。彼が部屋に入ってきた瞬間、その存在感は誰の目にも明らかだった。」
「私たちはWBCとして、世界各地で彼のキャリアと功績を称える多くのイベントでご一緒するという大きな栄誉に恵まれた。1983年のニューヨーク・国連本部でのガラをはじめ、メキシコシティ、ラスベガス、ウズベキスタンなど、数多くの地でその栄光を分かち合うことができた。」
「ボクシング界、そして世界は、真の伝説を失った。その遺産と記憶は永遠に語り継がれるだろう。」
※編集部注:本特集記事は、2016年7月号の『ザ・リング・マガジン』に初出掲載されたものです。
ニノ・ベンベヌティにまつわる逸話の中でも特筆すべきなのは、1960年ローマ五輪で“最優秀ボクサー”に選ばれたのがカシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)ではなく、彼だったという事実だ。この栄誉が、ヨーロッパ出身選手として最高峰とも称されるキャリアの幕開けとなった。
ベンベヌティがボクシングを始めたのは11歳のとき。伝説の名王者ドゥイリオ・ロイに憧れ、グローブを握った。アマチュアとしては120戦を経験し、敗北はわずかに一度のみ――しかも判定に疑問の残る内容だった。
「私にとっては120戦無敗(120勝0敗)なんだ。あの敗北はナンセンスだったからね。」と、ニノ・ベンベヌティは最近、通訳を通じて『ザ・リング・マガジン』に語った。「あれはトルコでの試合で、相手は地元のトルコ人ボクサーだった……でも、試合を見ていた関係者は全員、私の勝ちだという意見だった。だから最終的には、公式記録が119勝1敗でも、私は満足している。」
アマチュア時代の集大成は、母国開催のオリンピックでの金メダル獲得だった。5試合すべてを判定で圧勝し、頂点に立った。プロとしてのどの栄光よりも、この瞬間が最も誇らしいものだった。
「あれは私の人生で最大の勝利だった。」と彼は語っている。「その瞬間、そしてその後の数年間において、最も意味のあるものだった。少年の頃から夢見てきたのは、イタリア代表としてオリンピックに出場することだった。だからこそ、ローマで金メダルを獲得するということが、私にとってどれほどの意味を持っていたか――想像できるだろう。」
「私にとって、オリンピックでの勝利こそがキャリアの中で最高のものだった。なぜだか分かるかい? それは、“永遠”だからだ。私は今や“元”世界ミドル級王者だが、オリンピック金メダリストであることに変わりはない。」
ベンベヌティは1961年初頭にプロへ転向し、デビューから56連勝を飾った。その過程でイタリア国内王座、さらにヨーロッパ王座を獲得し、快進撃を続けた。そして1965年夏、同じイタリア出身のサンドロ・マッジンギとの世界スーパーウェルター級(154ポンド)タイトルマッチに挑戦。6ラウンドTKOで同胞を圧倒し、WBA・WBC世界王者の座に就いた。
ベンベヌティは1965年12月の再戦でもサンドロ・マッジンギに判定勝ちを収め、王座の正統性を証明した。しかしその後、意外な形でタイトルを失うことになる。韓国で行われた防衛戦で、地元のキム・キスにスプリット・デシジョン(2-1の判定)で敗れ、WBA・WBC王座を明け渡したのだ。ベンベヌティは、アマチュア時代のオリンピックでキムを下していた因縁もあり、まさかの敗戦だった。
判定に納得がいかず、「勝っていた試合を奪われた」と感じたベンベヌティは、階級を上げてミドル級へ転向した。端正な顔立ちで人気を博していたイタリア人王者は、その後7連勝を記録し、アメリカ初登場の舞台でいきなりビッグマッチに臨むこととなる。相手はRING・WBA・WBCミドル級王者のエミール・グリフィス。この一戦は、ニューヨークで行われた三部作(トリロジー)の初戦として語り継がれており、後に両者はともに国際ボクシング殿堂入りを果たすことになる。
初戦では両者が序盤にダウンを奪い合う激闘となったが、勝利を掴んだのはベンベヌティだった。この試合は『ザ・リング・マガジン』の1967年ファイト・オブ・ザ・イヤーにも選出されている。しかし同年の再戦では、エミール・グリフィスがマジョリティ・デシジョン(2-0-1)で王座を奪還した。そして1968年、両者による決着戦(ラバーマッチ)が実現。ここでもベンベヌティがユナニマス・デシジョン(3-0)で勝利し、再びWBA・WBCミドル級王座を取り戻した。
ベンベヌティはその後、ノンタイトル戦3試合(うち1敗はディック・タイガー戦)を挟みながらも、世界王座の防衛に4度成功した。そして迎えたのが、当時はまだ無名だったアルゼンチンのカーロス・モンソンとの一戦だった。両者は11ラウンド以上にわたって激しい攻防を繰り広げたが、最終的に若きモンソンが第12ラウンドで勇敢なベンベヌティをストップし、この試合は再び『ザ・リング・マガジン』の1970年ファイト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
ベンベヌティは1971年、モンソンとの再戦で敗れたのを最後にグローブを置き、通算戦績82勝7敗1分(35KO)という輝かしい記録を残してリングを去った。1992年にはその功績が称えられ、国際ボクシング殿堂入りを果たしている。
現在77歳となったベンベヌティは結婚しており、6人の子どもと2人の孫に恵まれている。実業家としても成功を収め、イタリアのRAIチャンネルでボクシング解説者として活動を続けるなど、今なお競技と深く関わっている。
そして今回、『ザ・リング・マガジン』の取材に快く応じ、自身がキャリアで対戦した中から「最も優れた相手」を10のカテゴリーで振り返ってくれた。
ベスト・ジャブ
フアン・カルロス・デュラン:「彼のジャブはとても良かった。頻繁に繰り出され、正確なパンチだった。ただ、それほど鋭さはなかった。私が考える本物のジャブとは、もっとダメージを与えるものなんだ。」
ベスト・パンチャー
ディック・タイガー:「彼は本当に強くてパワフルだった。ただ力があるだけでなく、正しいパンチのテクニックを使って、より効果的に当ててきた。」
最速のハンドスピード
エミール・グリフィス:「エミール・グリフィスが連打をまとめてきたときだ。とても速くて、見事なコンビネーションだった。」
最速のフットワーク
グリフィス:「またしてもグリフィスだ。“エミリオ”(私が彼に付けたあだ名)は細い脚をしていたが、15ラウンド通して反応が良く、持久力もあった。攻撃でも守備でも、自分の足を正しい位置に置くことを分かっていた。」
最も頭脳的だった相手
グリフィス:「この特性について語るなら、私は常に、異なるスキルやスタイルを持つ相手に対応するボクサーの適応力に強い関心を持っている。それはチャンピオンにとって非常に重要な資質であり、正しい調整を可能にしてくれる。そしてこの点で、エミール・グリフィスは私が対戦した中で最も優れていたと思う。彼が全盛期を過ぎていた頃のモンソンとの試合を見ても、それがよく分かる。」
最も打たれ強かった相手
カーロス・モンソン:「もちろん、モンソンだと言える。ただ残念ながら、彼の実力を思うように試すことはできなかったけどね(笑)。スパーリングでよく一緒だったベニー・ブリスコも、タフで鉄のアゴを持つボクサーだった。」
最も強靭だった相手
モンソン:「そう、やはりカーロス・モンソンだった。彼のパンチには強い意志と凶暴さが込められていて、スパーリングですら相手を痛めつけることを楽しんでいたらしい。そして、そのために必要な体格も彼には備わっていた。」
最もディフェンスが優れていた相手
モンソン:「実際、カーロス・モンソンは非常にパンチを当てにくいボクサーだった。彼の手の動きは独特で、まるでタコのようだったと言ってもいい。それによってこちらは距離感を掴めず、何もさせてもらえなかった。ロープ際に追い込んでも、彼は上体を反らして自分の身長を活かし、こちらのパンチを外してきた。」
総合的な技術で最も優れていた相手
グリフィス:「(ルイス)ロドリゲスかグリフィスか、どちらかだと思う。タイプは異なるが、両者とも優れたボクサーだった。ロドリゲスのパンチは肩に当たっただけでもパワーを感じた。一方“エミリオ”は、完璧かつ正確にヒットさせないと本当の効果を発揮しなかった。もし彼らが本物のミドル級だったら、ほとんど無敵だったかもしれない。選ばなければならないなら、私はグリフィスを挙げる。」
最も優れたファイター
モンソン:「なんて質問だ、答えはもちろん……私だよ!(笑)いや、正直に言うと、かつてシュガー・レイ・ロビンソンと夢の中で戦って、判定で勝ったことがある……もちろん判定でね。だから、答えるならモンソンだ。」
イタリアのボクシング記者マルコ・ブラトゥシュが、本企画のコーディネートおよび翻訳を『ザ・リング・マガジン』のために担当した。