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敵地での戦い:ウェイン・マカロック
インタビュー
Anson Wainwright
Anson Wainwright
RingMagazine.com
敵地での戦い:ウェイン・マカロック

薬師寺保栄


1995年7月30日、日本・名古屋 愛知県体育館 • タイトル:WBCバンタム級

1992年のオリンピックで銀メダルを獲得したウェイン・マカロックは、故郷である北アイルランド・ベルファストを離れ、アメリカ・ラスベガスへと移住し、名トレーナーである故エディ・ファッチの指導のもとでプロキャリアをスタートさせた。

キャリア初期の2年間で精力的に試合をこなしていたマカロックは、1994年1月に当時無敗だったハビエル・メディナと対戦し、7回TKOで破ってNABFバンタム級王座を獲得した。数カ月後には初防衛戦として、かつて世界王座を保持していたベテランのビクター・ラバナレスと対戦し、僅差の判定でこれを退けた。この試合は同時にWBCバンタム級タイトルの挑戦者決定戦も兼ねていた。

しかし、すぐに世界戦のチャンスが訪れたわけではなく、マカロックは辛抱強く待つこととなった。その間に3試合をこなし、1年後、ようやく日本・名古屋で薬師寺保栄と対戦する機会を得た。通達を受けたのは試合の約4カ月前だった。

「3週間ラスベガスで合宿をして、その後ユタ州で3週間、最後の1週間はハワイのワイキキビーチのすぐそばに滞在して朝にビーチを走った。最高のトレーニング環境だった」とマカロックは『ザ・リング・マガジン』に語った。「ハワイから名古屋へはビジネスクラスで移動し、試合の1週間前に現地入り。すべてがエディの完璧な計画通りだった。」

「ザ・ポケット・ロケット」の異名を持つマカロックは、高身長かつ技巧派の王者をその地元で破るという困難な挑戦を認識していた。

「(薬師寺は)この試合で5度目の防衛戦だった」と彼は述べた。「この試合に臨むまで、アイルランドやイギリスの選手が日本で世界タイトルを奪取したことがなかったことを知らなかった。完全にアウェイの戦いだった。」

ファッチをはじめとするコーチ2名、ドクター、スパーリングパートナー2名とともに構成されたチームは、名古屋ヒルトンホテルでの滞在中、概ね温かく迎えられた。




「文化が違ったね」と彼は振り返る。「日本人は礼儀正しくて、街もとても綺麗だった。空港に着いた瞬間から出国するまでずっとマスコミに囲まれていた。外出はジムとランニングのときだけで、基本的にはホテルにこもっていた。」

「ホテルは一流で、必要な食べ物や飲み物も用意してくれた。最初の日だけ、誰かが僕の料理を頼み、僕が相手の料理を注文した。何か仕込まれていたら嫌だから(笑)。でもそれ以降は問題なかった。一流のホテルと一流の人たちだった。」

とはいえ、日本側の心理戦もあった。

「2晩連続で誰かが部屋のドアを叩いた。たぶん薬師寺側の人間だと思う(笑)。でも自分はベルファストの“トラブルズ”の最中に育ったんだ(笑)。最初の夜は起きて覗いたけど、2日目はベッドから出なかった。」

通常、スパーリングは試合の1週間前に終了するが、地元メディアの前で試合の4日前にスパーリングをしてほしいと要請された。

「エディは問題ないって言ってた」と彼は振り返る。「彼はいつも『ジムでも良いけど試合ではもっと良い』って言ってくれてた。

相手を遊ぶように打った。相手を痛めた。自分はキレていて仕上がっていた。もしかしたら日本側は別のことを考えていたのかもしれない。」

計量では挑戦者のマカロックが117ポンド3/4で無事クリア。しかし王者の薬師寺にはやや問題があった。




「自分は計量に問題なかったけど、彼はスポーツショーツを着たままで何か英語で叫んでいた。数ポンドオーバーだったと思う。自分はすでに2ポンドくらい水分を戻していたけど、10分後くらいに下着だけで戻ってきてパスした。明らかにメンタルに揺さぶりをかけてきた。」

そして、30年前の水曜日に行われた試合当日、マカロックは見事に輝きを放ち、技巧派王者からWBC王座を奪った。

「伝説のコーチであるエディ・ファッチは、トレーニング中に自分が試合当日に完璧なピークを迎えるように、完璧な試合プランを練ってくれた」と彼は説明する。「王者の最大の武器がジャブであるにもかかわらず、ファッチは自分にさまざまな角度からジャブを打つように指導してくれた。試合当日、控室でエディは『ジャブを打て』と言った。そのとき自分はかなり困惑した。なぜなら、薬師寺のジャブが非常に優れていることを知っていたからだ。

それでも、自分はリングに上がってから、ボディと顔面に対してさまざまな角度からジャブを打ち込み始めた。その戦術は見事に機能し、2-1のスプリット判定で勝利を収めた。これにより、自分はUKとアイルランド出身のボクサーとして初めて日本で世界タイトルを獲得した選手となり、またアイルランド初のWBC王者にもなった。こうした勝利は時に忘れられてしまうこともあるけれど、自分にとってはまさに歴史的な勝利だった。」

判定はバーバラ・ペレスとトム・カズマレクがそれぞれ118-110、116-113でマカロックを支持。ジェ・ボン・キムは116-115で薬師寺を支持した。

現在はトレーナーとして活動しているマカロックは、最も身近な人々とその瞬間を喜び合ったが、思わぬ高額請求を受けることとなった。

「試合は昼だった。夜にはホテルでパーティーを開いた。総勢20人ほどが応援に来てくれていた。

通常はマネージャーが経費を負担するはずなんだけど、自分が12万5千ドルの請求を受けた。しかもマネージャーは報酬の25%を持っていった。彼は家族まで連れてきてた。リング上には彼の子供もいたけど、あれも自分が払った。自分の報酬は約57万5千ドルだったけど、税金などを引かれて、手元に残ったのは18万ドルくらいだった。」

薬師寺はこの試合を最後に引退した。一方、マカロックはその後も現役を続け、ジョニー・ブレダールを地元ベルファストで8回TKOに下し、さらにダブリンではホセ・ルイス・ブエノとの壮絶な打ち合いを制して2-1の判定勝ちを収め、2度の王座防衛に成功した。

しかし、体重管理の問題から階級をスーパーバンタム級に上げ、WBC王座をかけてベテランのダニエル・サラゴサと対戦したが、僅差の2-1判定で敗北。その後もナジーム・ハメドとのWBOフェザー級王座戦(12回判定負け)、エリック・モラレスとのWBCスーパーバンタム級王座戦(12回判定負け)、スコット・ハリソンとのWBOフェザー級王座戦(12回判定負け)、さらにオスカー・ラリオスとのWBCスーパーバンタム級王座戦では2度対戦し、それぞれ12回判定負けおよび10回終了TKO負けを喫した。




質問やコメントはAnson(elraincoat@live.co.uk)まで。また、Twitter(@AnsonWainwr1ght)でもフォロー可能である。

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