ミルトン・マクローリー
1983年8月13日、米ネバダ州ラスベガス、デューンズ・ホテル
●タイトル:空位のWBCウェルター級王座
無敗のウェルター級同士、コリン・ジョーンズとミルトン・マクローリーは、1983年3月にネバダ州リノで対戦し、空位のWBC王座をかけた12ラウンドの激闘は判定でも決着がつかず、引き分けに終わった。
その再戦のプロモート権は、ドン・キングが61万5,000ドルの入札で獲得しており、報酬は両者で50対50に分配される予定だった。
それから5か月後、前回の決戦の舞台から約442マイル離れた地で、両者は再び拳を交えることとなった。
その前にジョーンズはトレーニングキャンプに入り、まずは地元で調整を行ったのち、気候に慣れるためにアメリカへと向かった。
「マーサー(ウェールズ)で1か月間、みっちりトレーニングしてたんだ」とジョーンズは
「ザ・リング・マガジン」に語った。「それから2週間リノ(ネバダ州)に移って、屋外で練習した。リングも外に設置されていて、最高の環境だったよ。スパーリング相手も呼ばれてきて、みんな良いパートナーだった。マクローリーみたいに身長6フィートある本格的な相手で、準備としては万全だった。」
故郷ウェールズで墓掘り人や炭鉱労働者として働いていたジョーンズは、トレーナーのギャレス・ベヴァン、マネージャーのエディ・トーマスらチームとともに、試合の2週間前にラスベガス入りした。
「デューンズ・ホテルに滞在してて、ドン・キングが施設を用意してくれたんだけど、俺たちはジョニー・トッコのジムに行くことにしたんだ。そこは素晴らしい経験だったよ。いろんなチャンピオンたちが来ててね。アレクシス・アルゲリョも一緒にロードワークしてた」とジョーンズは語った。「目を閉じてダーツを投げたら、当たるのは世界王者ってくらいの場所だったよ。壁一面に、そこでトレーニングした偉大なファイターたちの写真が貼られてた。これ以上の準備なんてなかったよ。」
ファイトウィーク中、開催地のリゾートが売却されることになり、主催者がドン・キングに対して約束していた30万ドルの開催料を支払えないというニュースが飛び込んできた。
「試合の3日前くらいだったかな。デューンズ・ホテルにあるドン・キングのオフィスから誰かが降りてきて、『デューンズ・ホテルが清算手続きに入って、スポンサーから手を引いた。だから10万ドルの報酬カットを受け入れない限り、この試合は実現できない』って言われたんだ。すべてのハードワークを終えた後にそんな話を聞かされるなんて……本当にショックだったよ。でも幸いにも、エディ・トーマスがやり取りの書類をすべて手元に持っていてくれた。ただ、現場はかなり混乱してて、騒然としてたのを覚えてる」と彼は振り返った。
「エディ・トーマスはアメリカ人の弁護士を呼び寄せることに決めた。それで実際にドン・キングのオフィスに行ったとき、ホテルの部屋まで来てあの話をしたあの男が、オフィスのドアを開けたんだ。俺たちは中に入って、ホテルが試合に拠出するはずだった金が引き上げられた件について、ドン・キングに直接問いただした。そこに至るまでにさらに2日もかかった。その一件は本当に大きな打撃だった。金額も桁違いだったし、完全にペースを乱されたよ。」
「弁護士がこう言ったんだ。『プロモーターがその金額で契約を交わした以上、それをどうやって調達するかは我々の責任じゃない』って。結局、その話はなかったことになって、翌日には何事もなかったように試合が行われたんだ。もうその時点でダメージはあったと思う。デューンズ・ホテルが本当に資金を引き上げたのかどうか、それは俺には分からないし、一生分からないかもしれない。でも確かに俺はそう言われたし、エディは間違いなく弁護士を呼んだ。混乱は確実に引き起こされたんだ。」
それでもジョーンズは、大西洋を越えて駆けつけた約400人の同胞たちの声援を受けながら、前回の試合で味わった失望を振り払う決意でリングに立った。ただし、ラスベガスの灼熱の中では、頭を使った戦いをしなければならないことも自覚していた。
「今回は最初から仕掛けるつもりだったよ。もちろん、気温のこともあるから、あまり飛ばしすぎるわけにもいかなかったけどね」とジョーンズは語り、リングサイドの気温が摂氏40度(華氏104度)にも達していたことを振り返った。「あれは本当に初めての体験だった。あの暑さの中でリングに上がるなんて…もう一度やれって言われても無理だったと思うよ。」
2対1(+200)のアンダードッグと見られていたウェールズ出身のジョーンズは、脱水対策として塩分タブレットを摂取して試合に臨んだが、立ち上がりは最悪だった。懸命に戦ったものの、序盤のビハインドを最後まで埋めることはできなかった。
「立ち上がりは彼が良かったよ。初回にいいパンチをもらってダウンを取られたし、前半は完全に彼のペースだった。でも後半に入ってからは自分の方が手数も出て、流れを掴んだと思ってる。」
「前回よりも、今回は引き分けに近い内容だったと思う。中には『2戦目の方が良かった』って言ってくれる人もいたよ。でもそれがボクシングってもんだ。受け止めるしかないんだよ。あの夜の彼はいいボクシングをしていた。こっちにもチャンスはあったし、何度か追い詰めた場面もあったけど、彼は本当に危ないときにはうまくボブ・アンド・ウィーブでかわして逃げ切った。判定は彼に行ったけど、何の不満もない。立派な世界王者だったよ。」
実際、マクローリーもこの試合についてジョーンズと同じ意見を持っていた。
「正直に言うと、2戦目は引き分けでもよかったと思ってる」とマクローリーは語った。「2戦目で違ったのは、俺が彼を倒したってことだけだ。あの試合は本当に接戦だったよ。」
しかし、最も重要なのは3人のジャッジの採点だった。アンヘル・C・トーヴァーは114-113でジョーンズに軍配を上げたが、アンセルモ・エスコベド(115-111)とレイ・ソリス(115-114)の2人はマクローリーを支持し、判定はマクローリーの勝利となった。
両者はその後、それぞれの道を歩んだ。ジョーンズは1985年1月、イングランド・バーミンガムでIBF/WBA統一王者ドナルド・カリーに挑戦するも、4回TKOで敗れ、その後引退した。
一方のマクローリーは、WBC王座を4度防衛したのち、1985年12月にラスベガスで行われた王座統一戦でカリーに挑み、2回KOで敗れて王座から陥落した。
その後、二人は何度か顔を合わせ、互いに言葉を交わす機会もあった。
「試合から数年経つまで、実際に会うことはなかったんだ」と彼は語った。「バリー(・マクギガン)とスティーブ・クルスの試合を観に行ったときに、そこで初めて彼と再会したんだ。」
「彼と会ったのは8年くらい前かな。俺は今、ナショナルコーチをやってて、そのときウェールズ代表がカナダで行われたボクシング大会に出てたんだ。彼はデトロイトから奥さんを連れて来てくれて、こっちも妻と一緒だった。事前に会う約束をしてたから、ちゃんと会えて、本当に素晴らしい時間だったよ。いい再会になった。」
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